鹿島小学校の敷地内に「平和継承之礎」を建てた思いを語る鹿島市被爆者の会の木原繁義さん=鹿島市高津原

 鹿島市の鹿島小学校の駐車場の片隅に「平和継承之礎」が建つ。75年前の夏、長崎への原爆投下から3日後の1945(昭和20)年8月12日から、鹿島小(鹿島国民学校)は被爆者の救護所となった。

 長崎線・肥前鹿島駅に到着した傷病者を受け入れ、看護活動が行われた。その日の校務日誌の記録には、「約60人来校」とある。

 鹿島市被爆者の会が終戦50年で刊行した「平和へのねがい」を見ると、手当てした保健婦らの証言がつづられている。講堂に運ばれた患者の皮膚は黒く焼け、経験したことのない臭いを放った。髪は抜け落ちていき死者は日ごとに増えた。遺体は、お湯できれいにふいて棺(ひつぎ)に。当時の鹿島町役場職員が火葬場に運んだ。

 「鹿島藤津医会史」や救護の前線に立った医師の手記も転載、多くの住民が救護に加わったことがうかがえる。県庁からの指示を受けた町は、講堂にござを敷き、寝具を町中から募った。婦人会は看護と炊事、男性有志が雑務のほか遺体処理を引き受けた。救護所は8月末で閉鎖された。

 戦争の悲劇を二度と繰り返してはいけないと、鹿島市被爆者の会は2011年、石碑を建立した。会員らで毎年、8月9日に慰霊祭を行い犠牲者のために手を合わせる。会長の木原繁義さん(82)=飯田=は「原爆で父を亡くして悲しい思いをした」という。

 戦禍の記憶を継承し平和をつないでいくためにも、「碑を通じ、子どもたちに語り継いでいってほしい」と語った。(中島幸毅)

 

■鹿島市被爆者の会

 長崎への学徒動員で被爆した人、直後に爆心地近くに入った「入市被爆者」など120人いた会員は、5月時点で24人に。過去には講演やパネル展を開いたが、高齢化で活動が難しくなっている。会は9日午前、鹿島小の碑の前で慰霊祭を行う。

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