嬉野医療センター跡地にある嬉野海軍病院の設立記念碑。長崎への原爆投下当時は、被爆地から負傷者が多く運び込まれた=嬉野市嬉野町

 佐賀県嬉野市の嬉野医療センター跡地に、嬉野海軍病院の設立記念碑がある。海軍病院は、医療センターや国立嬉野病院の前身で、1937(昭和12)年に設立された。この病院には、長崎市へ原子爆弾が投下された45年8月9日の翌10日、負傷者が次々と運びこまれた歴史がある。

 長崎市が原爆に関してまとめた記録「長崎原爆戦災誌」によると、45年8月10日、2、3台のトラックで負傷者が運びこまれたのが最初の収容だった。その後も小規模の収容が8月末まで続いた。一家6人が、年長順に息を引き取っていったという記述もある。収容者の中には、長崎県諫早市にあった佐世保海軍病院諫早分院から転送された負傷者も多くいたという。収容者は総勢180人で、このうち全治退院が11人、軽快退院135人、死亡退院33人、その他1人とある。

 当時、嬉野町国民学校4年だった生田憲雄さん(85)は、農業をしていた父親や近所の人からその様子を伝え聞いた。「体が焼けただれた人が次々来て、手が付けられなかったようだ」。医薬品が不足し十分な治療ができなかったため、多くの人が亡くなっていったという。

 生田さんは、原爆投下時の“閃光(せんこう)”を記憶している。数分後、「キノコ雲」が立ち昇っていくのを目にした。「大きかろうが、小さかろうが、二度と戦争はしてはいけない」。戦後、年を重ねるごとにその思いを強くしている。(岩本大志)

 

嬉野海軍病院 佐世保鎮守府所管で1937年に設立。「嬉野町史」によると、戦線の拡大に伴い、佐世保にある海軍病院だけでは処理できず、嬉野への設置が決まったとある。設立当時の収容人数は100人だったが、その後500人に拡張。嬉野町は2万1569坪の敷地を提供した。

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