太平洋戦争末期、旧日本軍の滑走路があった国道203号を見つめる中山作馬さん=小城市小城町畑田

 太平洋戦争末期、現在の小城市小城町畑田の国道203号に、旧日本軍の滑走路が造られた。郷土資料や住民の証言によると、終戦直後に練習機1機が飛来したが、戦闘機が出撃することは一度もなかった。

 滑走路は、畑田交差点から晴田小付近までの東西約1キロの区域にあった。1944(昭和19)年末ごろから、直線の道路に沿って北側の田んぼを埋め立てて造られたとされ、近くに住む中山作馬さん(89)は「道路と飛行場を兼ねる計画だったと聞いている」。手描きの地図を広げて75年前の記憶を思い起こした。

 14歳だった終戦の年、木製飛行機を造る養成工として福岡の工場に通っていた。空襲は佐賀にも及び、通勤で利用した久保田駅(現佐賀市)も機銃掃射を受けた。「比較的平らな地形で、真っすぐな道もある。時間を掛けずに造るには、これ以上ない場所だったのでは」。小城に滑走路ができた理由を推測する。

 造成工事には、飛行練習生の少年たちや、中年の補充兵も従事。テントに寝泊まりし「軍の食糧も乏しかったのか。食べ物を求めて、夜中に家の裏口をたたく兵隊もいた」と振り返る。

 終戦後、土地は所有者に戻され、住宅や店舗が並ぶ。痕跡は、国道から約500メートル北の山手に練習機を隠した竹林と部隊の医務室だった公民館が残る程度だ。

 詳細な資料も見つかっておらず、「ここに滑走路があったということを知らない住民も増えてきた」と中山さん。戦争の実像に迫る記憶が薄れていくことに一抹の不安を覚える。小城町史によると、第2次世界大戦の町内の戦没者は600人に上る。(谷口大輔)

 

■旧日本軍の滑走路 

 2002年発行の郷土史「小城の歴史」では、米軍B-29の迎撃基地として計画されたと記述。軍需工場地帯の長崎と北九州の間に位置し、近くには飛行機部品製造「日東航機」の工場もあった。県公文書館には、戦後、佐世保海軍施設部から土地の所有者に復旧費が支払われ、返還されたことを報告する文書が残っている。

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