佐賀空襲で地区で唯一生き残ったクスノキについて語る福田繁文さん=佐賀市北川副町新村地区

 佐賀市北川副町新村地区にある巨大クスノキ。高さ20メートルを超えるその木は、1945(昭和20)年8月の佐賀空襲で、地区で唯一焼け残った。「『道路中央にあるので通行しやすいように切る』とならぬよう祈っている。佐賀空襲を今に伝える地域の財産だから」。当時を知る福田繁文さん(87)は戦争体験者が少なくなるからこそ、重みが増すと考える。

 1945年8月5日深夜。竹林につくっていた防空壕(ごう)が完成しておらず、頑丈な土蔵に家族で避難した。服が燃えるのを恐れ、姉と一緒に母屋からたんすの引き出しをあぜ道に運んだ。B-29が焼夷(しょうい)弾を落としてあちこちで火の手が上がり、幼い弟と妹が震えていたことを今でも鮮明に覚えている。

 自宅は戦火を免れたが、見慣れた農村風景は一変した。水町、光法などの近隣集落の民家や畑が焼け野原に。当時、旧制佐賀中学校1年で、帰宅中に新村地区に立ち寄るとクスノキだけが立っていた。

 2004年に校区自治会長になった時、空襲の記憶が風化することに危機感を覚えた。戦没者慰霊祭を地域の平和の集いにし、語り部の育成に力を入れた。脳梗塞で16年に校区での活動を引退してからも、小中学校などで講演。今年の8月6~9日に開かれる市の平和展の講演は、新型コロナウイルスで事前収録となり「思いを直接訴えたかった」と残念がる。

 あれから75年。クスノキは青々と茂る。「『まだまだしゃんとしろ』と言われている気がする。戦争のむなしさを伝え続けたい」とほほ笑んだ。(大田浩司)

 

■佐賀空襲

 1945(昭和20)年8月5日午後11時半過ぎから、米軍の爆撃機B29の編隊が1時間半にわたって、北川副町から諸富町一帯に焼夷(しょうい)弾など2300発を投下した。443戸の家屋が焼失し、61人が亡くなる被害が出た。

 

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 県内各地域には、戦争の記憶を伝える遺構や記念碑、ゆかりのものなどが残っている。戦後75年のこの夏、それらを取り上げ、関係者や思いを寄せる人たちの言葉を交えながら、継承への思いを紹介する。

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