幕末佐賀藩の名君として知られる10代藩主・鍋島直正の教育係であり、側近として終生支え続けた儒者古賀穀堂(こくどう)(1777~1836年)の遺稿を収めた「佐賀県近世史料」第8編第5巻が、佐賀県立図書館から刊行された。

 幕末から明治維新を率いた名君は、どうやって生まれたのか。“危機のリーダー”誕生の背景を探る資料として、現代の私たちにとっても興味深い。

 穀堂は「寛政の三博士」の一人とたたえられた、佐賀藩の儒学者古賀精里(せいり)の長男であり、江戸藩邸で若き直正の教育係を13年にわたって務めた。佐賀藩躍進の主因には大胆な教育改革が挙げられるが、それも穀堂がまとめた意見書「学政管見」に沿って進められた。

 大きな役割を果たした穀堂だが、その著書は多くが散逸し、わずかしか残されていない。今回の遺稿はまず、来歴が興味深い。文豪森鷗外(1862~1922年)が、自ら東京・上野の古書店で買い求めた、まさに現物だからだ。

 この遺稿は東京帝室博物館(現・東京国立博物館)が1920年12月28日に買い付けている。博物館の総長だった鷗外は穀堂によほど共鳴していたのか、92冊にのぼる遺稿のうち半数の46冊の表紙に、直筆の書き込みを残している。

 遺稿はほとんどが漢文で、刊行に当たり、2015年から専門家らが解読を進めてきた。

 そこから読み取れるのは、穀堂が目指したリーダー像である。「第一の賢君」として、米沢藩の上杉鷹山(ようざん)を挙げており、その治政が藩全体に浸透している姿を高く評価している。

 一方で穀堂は、佐賀藩の現状を「遊惰(ゆうだ)、特に甚だし」と手厳しい。長崎警備という世界への窓口を管理する立場にもかかわらず、危機感に乏しいという指摘である。

 直正に出した意見書「済急封事」でも、藩内に巣くう三つの病として「他人に対する嫉妬」「決断できない優柔不断」「負け惜しみ」を挙げ、その原因は学問が足りないからだと分析している。この意見書を受けて、身分を超えて学問に基づいて役職登用する制度が整えられていった。

 さらに遺稿には、まだ幼い直正をどう教育していくか、その基本方針も記している。危機のリーダーとして「鷹山公その人のごときもの」が望まれると明確だ。

 責任編集を務めた昭和女子大学人間文化学部の野口朋隆准教授は解題で「穀堂を感動させたのは、こうした偉業が江戸などの大都市ではなく、羽州米沢という『東隅』の地で成し遂げられたことであった。これは、肥前佐賀という『西隅』の地にいる穀堂にとっては、格好の理想モデルとなり、また大きな励みになったはずである」と指摘している。

 今回の新型コロナウイルス対応を巡っては、後手に回った政府に対して、各地の知事たちの存在感が増した。組織をどう率いて、危機を乗り切るか。現代の私たちにとっても、穀堂から得られるヒントは少なくない。

 この遺稿を手に入れた当時、鷗外は福山藩の儒者らの史伝文学を手掛けており、そこに穀堂を登場させてもいる。わずか1年半後に鷗外は死去するが、もしも時間があったなら穀堂の史伝を残していたかもしれない。きょうは、鷗外の命日である。(古賀史生)

このエントリーをはてなブックマークに追加