人や物が受ける恵みを「恩沢(おんたく)」という。もう着なくなったきものを親しい誰かに譲る。それは前の持ち主が人生で出会った恩沢を、次に着る人に受けつぐことだと、作家の澤地久枝さんが書いている。きものには、苦しみも悲しみも、すべて吸い取って晴れやかなものに変える力があるから、と◆以前、ひろば欄で読んだ佐賀市の土橋貞子さんの投稿を思い出す。祖母がカイコの糸をつむいで織ってくれた絹のきもの。一度も袖を通さないまま、半世紀以上タンスに眠っていたのに、シミも虫食いもない…◆養蚕はかつて農村の大切な産業だった。まゆ1個からとれる絹糸は1500メートルほど。1着の反物には2500個ものまゆが使われるという。孫娘のために、途方もない作業を経て仕立てられたきものは、恩沢そのものである◆いまでは暮らしの中から消えてしまったカイコが、新型コロナのワクチン開発に役立つ可能性があるという。九州大学が臨床研究を目指している。ワクチンに必要なタンパク質がカイコの体内でできれば、安価な医薬品の大量生産も可能になり、途上国でも予防がしやすくなる◆2昼夜、糸を吐き続けてまゆを作るカイコは野生では生きていけない。飛べず、食物も取れず、ほぼ繁殖のためにだけ羽化して一生を終える。人間のために、いままた歴史を紡ぐ恩沢を思う。(桑)

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