「梅雨ごもり」という言葉がある。降り続く雨で外出できず、家にこもること。この時季になると、時折『雨のことば辞典』(倉嶋厚、原田稔編著)を開き、雨にまつわる日本語の豊かな表現を楽しんでいる。

 新型コロナウイルスで「巣ごもり」が続いただけに、梅雨ごもりは余計にうっとうしくも感じるが、こちらは目映(まばゆ)い夏への通過点。季節の移ろいを楽しむくらいの気持ちで過ごしたいと読み進めていると、小林幸雄著『雨の日の水遣(や)り』が紹介されていた。

 養護学校(特別支援学校)の校長先生の話である。一人の知的障害児が何をやっても途中で放り出す。ある日、学級花壇の手入れをしていると、その子がいつになく興味を示したので水やりをやらせてみた。それから毎日、その子は教えられた通り丁寧に水やりを続けた。

 雨の日、校長室から外を見ると、いつものように水をやっている。近づいて声を掛けると、雨具を着ていない校長に、その子は自分のかっぱを脱いで濡(ぬ)れないようにと手渡した。その時、校長は「無意識のうちに自分の方が優れていると思い、与えることしか考えなかったが、人はみんな素晴らしいものを持っている」と、悟ったという。

 無益な行為の例えに使われる「雨の日の水やり」から生まれた話が戒めにも思えて胸に染みる。与えている、助けていると思っていたら、助けられ、支えられていた-。コロナ禍の中で、そう気づく瞬間があり、周りの人たちの素晴らしさを改めて感じた人も多いのではないか。

 紙面を振り返っても、連日掲載した「あなたへ」には家族や知人への思いがつづられ、読ませてもらいながら気持ちが和らいだ。マスクを贈ったり、食べ物を提供したり、支援の広がりを伝える記事も多かった。その一方で、デマや誹謗(ひぼう)中傷など、残念なニュースもあった。

 新型コロナの感染は山を越えたが、この経験を無益な「雨の日の水やり」にしてはいけない。行政や企業、地域や住民が支え合って持続する社会へ-。第2波、第3波を見据え、コロナ禍での気づきが生きるように、梅雨ごもりの日には「新しい日常」のありようを考えてみたい。

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