吉行淳之介さんに「静岡市精密大地図」というエッセーがある。戦時中、静岡で旧制高校に通った吉行さんは、日ごと軍事色が強まる学校生活に耐えきれず、東京へ帰ってしまった。あやしい診断書を医者に書いてもらい、休学の手続きを叔父に頼んだ◆道案内に静岡市街の詳しい地図を書いて渡したのだが、叔父は帰ってくるなり言った。「おまえの地図は、さっぱり役に立たなかったぞ」。地図には県庁も公会堂も郵便局も、目印になる公共施設が何一つ書かれていなかった。吉行さんの頭の中では、行きつけの飲食店や喫茶店、書店、映画館だけで街並みが成り立っていたのである◆土地の表情は何を大切に思うかで違って見える。愛着ある場所を記した自分だけの地図は、新型コロナ禍で広げることさえかなわなかった。きのう都道府県境をまたぐ移動自粛が解除された。感染確認が続いている首都圏や北海道、北九州市への往来は控えつつ、行きたい目的地を地図上に増やせたらいい◆地域を見渡せば、祭りもイベントも中止になり、土地の豊かな表情が消えている。移動制限の解除とともに、地域行事も開くことができるという。地図にまず書き込むなら、はるか遠くより、身近にある大切な日常を◆近所の煙草屋に行くのも旅のようなもの…たしかそんなエッセーも吉行さんにあった。(桑)

下記のボタンを押すと、AIが読み上げる有明抄を聞くことができます。

このエントリーをはてなブックマークに追加