子ども新聞のコラムでは、長期休校の感じ方の違いを例に挙げましたが、人にはいろいろな違いがあり、それがアイデンティティーになっています。人種や国籍、セクシュアリティーや政治的立場、信仰などから食べ物の好き嫌いまで、完全に同じ人は絶対にいません。だからこそ、自分と同じ要素を他者に見つけると、親近感で仲良くなれるのです。

 しかし、違う要素があるからといって親しくなれないわけではありません。完全に同じでもなく、完全に異なりもしないのです。なのになぜ、同じだから仲間、違うから仲間ではないと認識しがちなのしょう。

 国籍や人種が違っても実際に協働でき、仲良くなれることは多くの事例が証明しています。同時に、違いが衝突を生む姿も目にします。これらは、違いを違いとして認めるか、違いを優劣や善悪として正そうとしたり、一方に合わせさせようとするかによって生じる差と言えます。

 国籍や人種、信条などに善悪、正誤、優劣はありません。実際の生活での意見の違いも、一方が正しく他が明らかに間違いであると言い切れない場合がほとんどです。したがって、日常レベルで接する違いは、それぞれの好き嫌いであるともいえ、「どちらもそれはそれでよい」と認め合えば解決可能なはずです。

 ところが、意見を出し合って何か一つを決めるとなると途端に難しく感じます。ここは議論の仕方に注目しましょう。議論する際も、意見が同じだから、違うからで立場を分けて争う必要はないのです。それは言い争いであり、ある意見に無理矢理統一するという類のものでしかありません。議論とは、他の意見を言い負かして自分の意見を守るのではなく、それぞれが納得できる案をつくることです。

 大人の社会は議論の名を借りた言い争いであふれており、子どもたちの感覚にも影響しています。子どもたちは、仲間同士では議論をしてはいけないと思っている節があります。みんなと同じ意見でなければ仲間とみなされないと感じたり、違う意見を言うこと、言われることを恐れている懸念があります。

 自分の意見を言うことは、他の人を攻撃したり言い負かしたりすることとは違います。同時に、自分と違う意見も自分を否定するものではなく、それはその人の意見であると受け止めるのです。違いのある者同士が補い合うことで新しい何かが生まれるということを尊いこととして伝えていければと思います。(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

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