佐野榮壽左衛門(常民)肖像(『鍋島直正公傳』より)

 日本が開国し国交を始めた幕末、江戸幕府は、海防力強化の点から遅ればせながら海軍創設の必要性を痛感、オランダの支援を受け、長崎に海軍伝習所を開きます。佐野常民も佐賀藩から派遣され、幕府からは勝海舟が派遣されています。

 勝は、佐野と年も近く、出自こそ低かったものの、幕府に提出した海防に関する意見書が認められるなど才能を発揮、ついに伝習に派遣されました。その勝と佐野はここで、情報交換を行っています。

 中でも勝は、隣国・清を例に挙げ、植民地支配が及ぶことに危機感を感じているのに、幕府役人は全く危機感を感じず小事にこだわり、大局を見ていないと「グチ」をこぼすほか、当時日本国内で猛威を振るっていたコレラ予防として、長崎へ入港する外国船への検疫を行う「水際」対策を講じようとしていたことなど注目に値します。

 勝はその後、咸臨丸による初の太平洋横断、さらに戊辰戦争の際には、幕府を代表する形で新政府軍との交渉の矢面に立つなど歴史の表舞台へと躍り出ます。佐野が幕府を背負って立つ人物と「内談」「内密」という形で情報交換を行っていたことは、それだけ当時の佐賀藩海軍における佐野の立場、いわば「主役」の一人であったことを何よりも示していたと言えるのではないでしょうか。(佐野常民記念館学芸員・近藤晋一郎)

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