防空壕へ 退避思えば 自粛など軽い   正健

 これは佐賀県内の川柳作家による時事川柳「物見やぐら」の一つで、先日、佐賀新聞の投書欄「ひろば」に掲載された。作者の田原正健さんは戦中世代であり、防空壕へ逃げ込んだ自らの体験に重ねながら、今、コロナとの闘いにあっても、長引く外出制限に耐えようという呼び掛けだ。

 「ひろば」欄は4月29日から4日間、「わたしの昭和」特集を掲載した。短い募集期間だったにもかかわらず、100通以上の原稿が寄せられた。

 「昭和」は歴代の元号の中で最も長く、60年余り続いた。第2次世界大戦から、高度経済成長を経て、バブル景気の入り口まで、まさに激動の時代だった。さまざまな体験が寄せられるだろうという予想と違って、投書は戦争体験に集中していた。

 今年は太平洋戦争終結から75年の節目でもある。戦争体験を語るのに、残された時間はそれほど多くはないからでもあろう。4日間の特集を終えて、今なお投書は届き続けている。

 なぜ、これほど多くの人たちがペンを執って自らの体験をつづってくださったのか。思うに、今、私たちがコロナ禍と闘い続ける環境が戦時下に似ているからではないだろうか。

 新型コロナウイルスの死者は国内で600人を超え、世界全体では27万人を超えた。東日本大震災からの復興を掲げ、希望の象徴となるはずだった東京オリンピックは延期に追い込まれた。「緊急事態宣言」は5月末まで延期となって、「自粛」を強いられる生活はなお続き、雇用や地域経済への打撃も計り知れない。

 寄せられた投書を読む。

 低空から機銃掃射を受けながら、「がんばって」と励まし合った少女たち。長崎の原爆投下の直後に見た「どす黒く、燃えるようなきのこ雲」に立ちすくんだ記憶。物資不足のために手りゅう弾を作らされた有田焼工場で変形してしまった指の爪。逃げ込んだ防空壕で声を出さないように、父親がそっと口に含ませてくれた水あめの味…。

 炭鉱の町・大町の理髪店では、客が「日本は負ける。戦後石炭が必要になるから、大町には絶対空襲がない」と言い切る。戦後になると、復員した先生が解禁されたばかりの英語で「明日のプラン」と名付けた授業を始める。

 原稿とは別に手紙を添えたり、直接電話を掛けてきたりする読者も目立った。「つらすぎて家族にも話せなかった」「掲載されなくていい。ただ聞いてくれれば、それだけで十分」などで、自らの体験を誰かに伝えておきたいという思いがひしひしと伝わってきた。

 どの原稿も淡々とした筆致だったが、戦火を生き抜いた実感がこもった貴重な体験談ばかりだった。これは佐賀人が生きた歴史そのものであり、昭和が、あの戦争の焦土の上に成り立っていたのだと改めて思わされた。

 どんな時代であっても、庶民はしたたかに、そしてたくましく生きてきた。今回、寄せられた投書に通底するのは、昭和の体験を糧として、今の厳しい状況を乗り越えようというメッセージである。過去を未来への糧とする。その覚悟を今、読者の皆さんと共有したい。(古賀史生)

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