水屋橋の橋桁に取り付けられている「水量木」

 宝満川(旧筑後川)に面した水屋町と周辺一帯は、江戸時代「水付八ヶ村」と呼ばれ、洪水の常襲地帯でした。梅雨の時季には田畑は水没し、苗代田も村内に作れないほどでした。まともな収穫ができるのは3年に1度とも言われていました。

 このため田代代官所は洪水時の水位測定のため、水屋村と隣接の高田村との間を流れる大木川東岸に「水量木」を設け、洪水で出水の際には水屋・高田両村の庄屋に、朝夕の水位を測り、代官所に届け出させていました。

 洪水が怖いのはなにも江戸時代だけではなく、筑後川の氾濫にはつい最近まで悩まされていました。昭和28(1953)年の大洪水は恐ろしい記憶として今でも話題になります。

 ということで、江戸時代に設けられた「水量木」は、現在も水屋橋の橋桁に取り付けられ、水害に備えられています。(参考『鳥栖市誌第3巻』)(藤瀬禎博・鳥栖郷土研究会会長)

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