この春は、年度末から例年にない特殊な状況で、大人も子どもも初めてのこと、先行きの分からないことばかりで大きな不安、心配や具体的な困りごとの中にあります。

 大人は経験から「だいたいこうだろう」と先を見越して安心感を得るので、今回のような不測の事態は特にダメージが大きいと思います。ただ、よく考えると子どもたちの成長過程というのは毎年初めての立場となり、毎日新しいことにぶつかりながらの日々であり、不測の事態の連続です。一度経験している大人と違い、学校行事などの日程は示されていても実感できないという不安の中でずっと頑張り続けているのだなと気付かされます。

 今年のお花見自粛の際に「桜は来年も咲く」という表現が聞かれました。桜はきっと来年も咲くでしょう。花見は来年またできる。それまで辛抱してこの困難を乗り切ろうという趣旨として理解できます。しかし、子どもたちにとっては今年と来年は全く別の意味を持ちます。今年しか、今の学年でしかできないことが本当に多く、重要だからです。受験への影響と配慮も不透明ですが、部活の試合や大会、学校行事など今年でなければ意味がない、意味が変わってしまうものが本当に多く、これらを諦めなければならないということの辛さ、苦しさに対しては慰めの言葉も浮かびません。

 今回は、本当に諦めなくてはならないことがたくさんあるでしょう。簡単には諦められないことだからこそ、覚悟してしっかり考えておく必要があります。

 諦めるという言葉には消極的でマイナスイメージがありますが、現代で言う「あきらめる」の意味は転じてできたもので、本来は「物事の本質をあきらかに見きわめる」というものです。仏教経典に見られる「諦」は真理を意味します。仏教の根本、四諦八正道(したいはっしょうどう)は、真理として苦しみの本質と解決を説いたものであり、諦観(ていかん)は物事の本質を見きわめるという表現です。

 私たちはどうしても執着があり、あきらめはなかなかつきません。だからこそ、積み重ねてきた努力と準備を後悔や無駄としてしまわないためにも、なぜそうなのか、本質的な原因を見きわめ、どうにかできる問題か否か精いっぱい考えて、できないことを嘆くだけで終わらず、あきらかに見て判断する「諦め」の実践が重要になると感じます。(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

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