久留米大橋付近の放水路(現在は筑後川本流、左に見えるのは取水のための水門)

 元禄11(1698)年、宝満川・筑後川を巡る対馬藩田代領水屋村と久留米藩荒瀬村との間に紛争が起きました。

 交渉の結果は「魚漁・鳥猟については生業としている水屋村に認めるが、荷舟の航行は認められない」などの内容でした。

 この結果に田代領民は不満で、後に幕府代官に訴えるなど再三交渉が繰り返されていました。ところが、この結果が近代以降になって思わぬ効用を生みます。

 現在の筑後川は、宮の陣から小森野までは蛇行を避け、バイパスを掘り直線的に流れています。しかし、大正年間ごろまでは、北側の水屋村南で宝満川と合流し西に流れていました。しかし、バイパスを本流にしようとした際、水屋村ではこの川で生計を立てている者がいたため、旧河川にも水を流す必要があり、鳥栖側にも「水利権」が生じることになりました。

 この水利権をもとに現在、「東部工業用水」が1日4万トン強を取水しています。(この項続く。参考『栖』10・22号)(藤瀬禎博・鳥栖郷土研究会会長)

このエントリーをはてなブックマークに追加