明治維新150年にちなみ、新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は三日月中学校(小城市三日月町)の1年1~4組です。(授業実施2月5日)

 

「誰かの役に立つ」福祉の原点

村岡裕一郎先生 これまで福祉に関して、車いす体験やユニバーサルデザインの学習をしてきました。きょうは福祉をもっと深く勉強してもらおうと、佐賀出身で障害者教育・福祉の父と言われている石井亮一について記事を書いた佐賀新聞社の記者の方たちに来てもらいました。
多久島文樹デスク 石井亮一は1867(慶応3)年生まれです。元号が明治になる直前ですので、皆さんもよく知っている「佐賀の七賢人」よりも後の世代になります。
生徒1 石井亮一はなぜ福祉に取り組んだの?
多久島デスク 「だれかの役に立ちたい」と思うことが福祉ということです。福祉に取り組んだことがすごいと感じたということは「だれかの役に立ちたいと思ったことがすごい」ということです。
川﨑久美子記者 「パーキングパーミット」という、本当に必要な人に駐車場を確保する制度を知っていますか。佐賀県が2006年に全国で初めて作った制度ですが、現在は38府県で実施されています。佐賀は石井亮一の思いが受け継がれて「何が必要か」を考え続けている県だということも知ってほしいと思います。
 石井亮一は、今も東京にある知的障害者施設「滝乃川学園」を創設した人です。佐賀市の水ヶ江で生まれました。秀才で5、6歳のころには「論語」を暗唱していたそうです。東京大学やアメリカの大学に進もうとして、それぞれ病弱を理由に不合格になりました。私は記事を書いていて「自分ならやる気をなくしたかも」と思いました。でも、彼は投げやりにならず、教師として歩み出します。
 明治24(1891)年に濃尾大震災という大災害が起こった時、彼は被災地から20人あまりの孤児を引き取りました。彼は自分の手でおむつを替えたりミルクを飲ませたりして、教師の仕事を続けながら子どもらを育てました。この頃の日本は強い軍隊を持って欧米に肩を並べようという「富国強兵」を進めていて、貧しい子らに社会の目が向かず、知的障害のある人は放置されるか隔離されるかしかないという時代でした。
 私は、彼が「かつて海外留学したいと思ったのは国家社会に尽くしたいと考えたからだが、子どもらを育てることにも国家奉仕の意義があると分かった」と語ったと知り、彼の中では「だれかの役に立ちたい」という思いは途切れることなく続いていたのだと感じました。
生徒2 滝乃川学園をつくったほかに取り組んだことは?
川﨑記者 知的障害のある子どもへの教育を自分が学ぶだけでなく、社会に広めることにも熱心で、専門書も出版しています。自分が弱い立場に立たされた経験があったから、知的障害のある子どもらを支えたいという気持ちを持てたのかもしれません。進む道に困難があってもあきらめず、自分のできることに取り組んだ人だと思います。
多久島デスク 石井亮一が示した知的障害児の療育法は「一人一人に合った指導を考えるべきで、それを何度も繰り返すことで改善されていく」というものでした。110年以上も前に考えられ、現代にも通じるとされています。皆さんには、「障害」というものを「個性」だととらえて、その人が苦手にしていることがあれば、周囲が助けると考えてくれたらと思います。
川﨑記者 困っている人を見て「自分に何ができるだろう」と考えたり、「何かできることがありますか」と尋ねたりということが自然にできる。そういうことの積み重ねが石井亮一の望んでいた社会につながるのではないでしょうか。
多久島デスク 身近なところにも、気がつけば何か役に立つことがあるということだと思います。皆さん、ぜひ相手のことを思いやって、自分にできることを実行できるような人になってください。

 

【授業を聞いて  みんなの感想】

齋藤 俊太さん 石井亮一は佐賀の福祉の基礎を作った人だと知り、素晴らしい人だと思いました。石井亮一の思いは、今でも受け継がれているそうですが、僕たちも「誰かの役に立ちたい」という気持ちを行動に移すことはできると思いました。自分ができることからやってみようと思いました。

山本 侑果さん 福祉と石井亮一についての話を聞いて、大変だとわかる道をあえて自分から選んで福祉を行うなんてすごいと思いました。私もきょう学んだことを、単に学んだというだけで終わらせず、大変そうな人に声をかけて手伝うなど、毎日の行動に生かしていこうと思います。
 
 

【きょうの教材】

現代に通じる療育法提唱 障害者教育・福祉の父  石井亮一(1867~1937)

「さが維新ひと紀行」2018年11月24日付

 

 2018年9月、佐賀県議会で障害者差別解消促進に関する条例が可決された。条例の前文に、一人の男性の名前がある。「明治維新期、佐賀藩に生まれた石井亮一は、日本の障害者福祉に先駆的に取り組み、『知的障害者教育・福祉の父』としてその生涯をささげた」―。
 今も東京都立川市にある社会福祉法人「滝乃川学園」。石井は重度の知的障害がある子どもが隠されたり、育児放棄されたりするなど差別や偏見にさらされていた明治期に、米国の先進的教育を学び、日本初の知的障害者施設を立ち上げた。
 石井は1867(慶応3)年、佐賀市水ケ江に生まれた。米留学を目指し、英語習得のため立教大学に進学、キリスト教と出合い洗礼を受ける。米留学は「病弱」の理由でかなわなかったが、1890(明治23)年に立教女学校の教頭に就任する。
 教頭就任の翌年、甚大な被害が出た濃尾大地震が発生。家や両親を失った少女たちの中に、誘拐され、人身売買される人もいたことに石井は衝撃を受ける。被災地から孤児20人余りを引き取り、勤務の傍ら自ら世話をした。その中に、知的障害がある少女がいたことが、石井の人生を決める転機となった。同年、私財を投じて「孤女学院」を設立。日本では知的障害の研究が行われていなかったため、研究が進んでいた米国に渡り資料を収集した。帰国後、施設を「滝乃川学園」と改称し、知的障害教育の専門施設としてスタートさせた。
 1904(明治37)年、知的障害に関する日本最初の専門書を発表。一人一人に合わせた指導が大切であることを強調し、教える上での注意事項には「対比、類似等を示して十分に事物の性質を認識させる」「何度も繰り返すこと」などと記した。110年以上前に示されたこの教育法を同学園の関係者は、「現在にも通底する」と指摘する。
 石井は30代半ばで筆子という妻を得て、支え合って学園を運営した。1920(大正9)年に子どもの失火が原因で施設が火災に遭う。6人の園児が死亡し施設閉鎖を覚悟するほどの打撃を受けたが、皇室関係者からの励ましや多方面からの寄付により再興。亮一の死後は筆子がその遺志を継いだ。

 

 

【使ってみよう!ワークシート】

 「さが維新塾」では、新聞をもっと学校の学習や家庭での学びに役立ててもらおうと、記事を使ったワークシートを特設ウェブサイトで公開しています。問題を作成している多久島文樹NIE推進デスクがオススメのワークシートを紹介します。


自分の視力はどうですか?小中高生視力1.0未満最多(2019年12月21日付)

 前回は記事から数値を読み取り、図式化することで正しく伝え正確に理解してもらうことができると説明しました。佐賀新聞は全国のデータを取り上げる際には、佐賀県や県内市町のデータも提供している場合が多くあります。地域のデータを全国版に追加記入することで、比較して考えることができます。より身近に考えたり、話し合ったりすることができるでしょう。(多久島文樹NIE推進デスク)

ワークシートのダウンロードはこちらから↓
「さが維新塾」の特設ウェブサイト

https://www.saga-s.co.jp/feature/ishinjuku/index

 

【問い合わせ】
佐賀新聞社営業局アド・クリエート部
電話 0952(28)2195(平日9:30~17:30)
 

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