陶板『西南之役における博愛社救護所の図』佐賀市中川副公民館所蔵

 佐野常民伯爵は、文政5(1822)年12月28日、早津江の下村家(藩士)に生まれ、佐野家(藩医)の養子となり、明治35(1902)年12月7日に81歳(数え年)で没しました。

 若き日に、広瀬元恭・緒方洪庵・伊東玄朴など一流の蘭学者・蘭方医の薫陶を受け、佐賀藩精煉方の主任となり、長崎海軍伝習に参加し三重津海軍所の発展にも尽力します。46歳の時、パリ万国博覧会(1867年)の佐賀藩団長に任命され渡欧している間に、元号は慶応から明治へ変わりました。

 また、52歳で博覧会事務副総裁に就任しウイーン万博(1873年)訪欧中に「佐賀の乱(1874年)」(佐賀戦争)が勃発します。常民不在の時に特筆すべき事変が起きていることは、博愛社(後の日本赤十字社)設立の中心人物となるべき強い運命を持つ者として暗示を受けます。 

 56歳の常民は明治10(1877)年に始まった「西南戦争」の中で傷ついた人々を敵味方分け隔て無く助ける博愛社の設立を苦難の中で成し遂げます。

 この奮闘の動機付けとなったのは、若き日に適塾などで培った医者としての倫理観やパリ万博などで見聞した西洋文明への理解だけではなく、この戦いの3年前に起きた佐賀戦争において、常民と同年生まれの島義勇や若き逸材江藤新平が共に梟首(きょうしゅ)の刑罰を受けたことも内的動機として強く作用していたと考えています。(佐野常民記念館館長・諸田謙次郎)

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