老舗旅館「洋々閣」の5代目を務める大河内正康社長。「浮岳」の間は自然光を生かした造りとなっている=唐津市東唐津(撮影・鶴澤弘樹)

「日本味の宿」の活動の一環で、台湾でお点前を披露する大河内正康社長

●明治26(1893)年に創業し、純和風の「日本旅館」として国内外から観光客が訪れる。

 石炭産業で潤っていた時代に創業し、130年ほどになる。当時は近くに北九州鉄道(現在の筑肥線)の終着駅があり、宿屋の一つとして親しまれた。建物自体は大正元(1912)年に建て直した。機械がない時代の木造建築で、今の建築家が見ても「すごい」と言われるほど。どうしても傷んでくるので、少しずつ手を加えながら、日本旅館の良さや面影をできるだけ崩さずに残してきた。

 全部で19部屋あり、八畳一間だった二部屋を一部屋に改装した部屋もある。すべて趣が違う。例えば、「浮岳の間」は、自然光を取り入れる造りで、天井は経年の色を出し、壁は土壁。照明にもこだわり、この部屋に合うように京都の照明会社に手作りしてもらった。伝統的な日本家屋の良さを伝えられる部屋になっている。

 食事にもこだわっている。会席料理で、前菜やお造り、煮付けなど日本酒をおいしく味わっていただける料理を出している。食材は、毎朝市場で調達した玄界灘の魚介類を使い、日本酒も地元唐津産を中心に提供している。九州で初めて出したしゃぶしゃぶは、魚を食べ慣れている地元の人や魚が苦手な人にも楽しんでもらっている。

 

●どんな客層が利用されているのか。

 元々、土日は日本人が多く、平日は7~8割が海外からの宿泊客。箱根の富士屋ホテルに勤めていた父が洋々閣を継いだ時、佐世保の米軍基地などに呼び掛けたことで、欧米の人が増えた。純和風のおもてなしが口コミで伝わり、アジアからのお客さんも増え、一昨年は外国人の6割が韓国からだった。

 

●新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっている。影響は。

 土日満室だった予約が数件に減り、平日は閑散としている。納得はしているものの、今までこのような状況はなかった。観光業は、自然や経済、外交問題といった外的要因に左右される。突発的にお客さんが来ないことも念頭に置いて、他の旅館と情報交換しながら、手を広げることなく商いを続けてきた。しかし、「こういう状況だからこそ行きます」という人もいてくれる。12年前に生まれたばかりの子どもと一緒に来たお客さんで、「大きくなった息子に旅館を見せてあげたい」と連絡があった。泊まりに来てくれた人がまた来てくれるのは、この仕事の喜び。今は大変でも、旅館のメンテナンスなど、今できることを行い、お客さんにいつも以上の思いを持っておもてなしをしていきたい。

 

●5代目となる。旅館を継いだきっかけは。

 父に言われてはいないが、周りからは「期待している」と言われていた。後を継がないといけないと思う一方で、決められてるのが嫌で、子どもの時は継ぎたくないと思っていた。きっかけは息子の誕生だった。福岡で銀行員として働き、銀行の同期だった妻と26歳で結婚した。いろんな経営者と話ができる銀行の仕事は楽しかったが、子どもが生まれ、私の決断が息子の将来にもつながってくるため、真剣に考えないといけないと思った。妻の言葉はありがたかった。「家族だからどちらでも応援するよ」と背中を押してくれた。

 

■好きな言葉

 One for all, All for one(高校から32歳まで、ラグビーに熱中していたことから)

■影響を受けた人物、尊敬する人など

 作家の佐藤隆介、柏井壽

■好きな映画

 ショーシャンクの空に

 

おおこうち・まさやす

 1972年9月26日、長崎県生まれ、47歳。長崎北陽台高校-福岡大学商学部卒。福岡県内で銀行員として務め、2004(平成16)年に32歳で洋々閣の支配人になり、43歳で社長に就任。日本味の宿副会長、唐津市旅館共同組合副会長、唐津観光協会の理事も務める。

 

【オフタイム】米国旅行で茶道に目覚める

 欧米人の宿泊客が多かった約10年前、勉強の一環で、米国へ旅行した。「国の文化を知っているのと知らないとでは、もてなし方が違ってくる」と言い、上流階級や中流階級など、それぞれの生活スタイルを目の当たりにした。文化を学びに行った米国で、米国人から、日本文化について問われたが、何も答えられなかった。「お茶の一つもたてられないことが、恥ずかしかった」と振り返る。

 帰国後、すぐに茶道裏千家に入門した。月3回、定期的に習っているほか、青年部でもお茶会を開いている。「相手のことを思って茶をたてる。お茶と日本旅館とは通ずるところが多い」。茶道から日本人として大切なことにも気づいたという。「まだまだ、ひよっこです」と謙遜しながら、相手を思いやる心でもてなす。

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