辰野金吾の長男で、フランス文学者の辰野隆(ゆたか)はユニークな人だった◆「ぼくはね、はばかりにはいる前に手を洗うんだ。小便したあと、洗ったりしない。なぜ、前に洗うかというと、これから大切なところに触れるからだよ」。戸板康二さんが『最後のちょっといい話』に書いている。ご存命の時分に握手でも求められたら、一瞬考え込んだかもしれない◆新型コロナウイルスの世界的流行の中心とされる欧州でも、似たような戸惑いが広がっているらしい。ウイルスを媒介するおそれがあるとして、握手であいさつする習慣をやめようと各国政府が呼び掛けている。友好のしるしに手も握れないというのは、世界中で移動規制が広がる現実と皮肉に足並みをそろえている◆このところ、株価急落で苦境に立つトランプ米大統領は大の握手嫌い。選挙中、支持者に手指の消毒ボトルを配ったこともあるほど。他国と手を握るのをいやがる自国第一主義も、潔癖さと表裏に思えてくる。そんな大統領がほめているのが「日本のお辞儀」。相手に敬意を表し、何より清潔というわけである。こんなときに日本文化の奥深さを見直してみたりする◆握手のとき、利き手を差し伸べる。その「右」も「左」の文字も、人が祈りをささげている姿を示すという。握り返す人のない手で、いまは天を仰ぐしかない。(桑)

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