斑唐津筒盃(口径6.4センチ、器高5.4センチ・桃山時代)

 この盃を買ったのは、私がまだ30代前半の頃だった。その時分、あまりの欲しさに「マダラのツツ、マダラのツツ」と騒いでいる私に、骨董屋だった父は、見るに見兼ねて「おい、お客のTさんから、ひとつ出して貰うか」と切り出してくれたのである。その時、天にも登る気持ちで懇願し、指折り数えて、その日を待っていたことを思い出す。

 当日、父と一緒にT氏の会社に行き、目の前に出されたのは二点。そのうちの一点を分けて貰えると言う。他の一点は、傷はあるが共継ぎであり、伝世らしく艶々としていた。釉は藁灰釉の白濁した部分より、茶色っぽい灰釉が多かった。どちらも捨てがたく悩んでいる私に、T氏は「家で呑み比べてごらん」と言って下さり、二点抱えて会社を出た。

高台はさっと一掻きした碁笥底。中心がずれているところがご愛敬

 帰りしな、父に「どっちにしよう」と顔色を伺うと「白っぽいのは発掘。茶色っぽいのは伝世。私なら伝世を取るよ」と。家に帰るなり、さっそく双方を呑み比べてみた。二つの盃に交互に酒を注ぎ、酒量も培になり明け方まで迷いに迷った。父のアドバイスは生かしたいが、長年、待ち望んでいた盃は、こちらの方である。もはや、自分の気持ちを直に問い正し、それに従うしか方法はない。するとどうだろう。深酔いのせいであろうが、白い斑釉の見込みが客れた酒と同化して、釉がトロンと生気を帯びて輝き出したのである。「おっ!」と心の中で叫ぶと同時に、まるで悟りを開いたかのように、この盃を相棒にすることを決めたのである。

 そうして手に入れた「マダラのツツ」は、こうして手の中に収まって30年になる。今となっては父の形見のようなこの盃に、どれ程の思いを注いできたことだろう。思い返すと、あれこれ迷った遠いあの日も、今日のような春先の寒い日だった。

 最近、あまり使っていなかったので、この稿を書き終えた、自分へのささやかな褒美の印に、酒を、なみなみと湛えて眺めてみたい。

(写真・吉井裕志 毎月第2金曜日掲載)

かつみ・みつお 1958年、東京・新橋で古美術商を営む家に生まれる。10代から西洋骨董に目覚め、大学卒業後、10年間、西洋骨董店で修業。その後、古美術「自在屋」4代目を継承。東京・渋谷区の自宅に店を構える。著書に『骨董自在ナリ』(筑摩書房)など多数。

 

解説

 本稿は勝見充男さんと先代自在屋であるお父様との斑唐津の筒盃をめぐるエピソードでした。もう10年 以上も前になるでしょうか、このお話を勝見さんご自身からお聞きしました。いずれの盃にするか二者択一を迫られ、それはそれは答えを出すのに窮したそうです。結論を出せずに苦しんだ勝見さんの心境を想う一方で斑の筒はやはり至高の盃、「ああ、羨ましいなぁ」なんて思ったことをよく覚えています。

 「斑」について綴るのは今回で二回目になりますね。骨董としての古唐津、ましてや斑唐津筒盃といったら滅多に出会えない貴重なものです。陶片をパズルのように呼び継いだものでもそれなりの価格で取り引きされています。完品やそれに近いものとなると、いやもう目玉が飛び出るようなもの。それゆえ贋物も多く出回っており、市場に出回る90% はダメ、と言われています。私自身の実感もそうだったり。勝見さんの筒は、と言えば私なんかが言うには差し出がましいにもほどがあるわけですがとても分かりやすい逸品。以前唐津市で行われた「古唐津のぐいのみ展」に出品されたり、勝見さんの著作にはたびたび登場している盃ですから見知った方も多いと思います。

 岸岳系帆柱古窯で産された、と言ってほぼ間違いないでしょう。白濁した釉薬が良く溶けた見込みの酒映えはよく、盃をひっくり返せば帆柱古窯特有のざっくりとした土味がなんとも好ましい。高台の削りはサッとスピーディーに一掻きした碁笥底。中心がずれているところがご愛敬で、そのひょうげ加減がとても魅力的です。前回鼎談で青柳恵介さんは唐津の盃を「上から見てもいいし、下から見てもいい、自由自在」と表現されましたが、まさにそれ、なのではないでしょうか。なんどかこれで呑ませてもらいましたが、手持ちが良くて、ついつい呑みすぎてしまうとても危険な盃でもあります。

 さて、今から400年 以上昔、安土桃山時代から江戸前期にかけて肥前地方、今で言う唐津市、伊万里市、武雄市、有田町、佐世保市等、肥前各地で朝鮮半島由来のやきもんが多く焼かれていましたのは皆さんご存知の通りです。

 磁器が焼かれる前の、古唐津と称されるやきものを私は大きく五つに分けて捉えるようにしています。岸岳系(唐津市)、 岸岳外系(唐津市、伊万里市)、松浦系(伊万里市)、武雄系(武雄市)、平戸系(武雄市、有田町、波佐見町、佐世保市、諫早市)がその五つ。今回の主題である斑唐津と呼称される、この白く濁った釉薬を使用して焼かれた器を産した窯は無地唐津や黒唐津と比較して非常に少なく、数百と言われる唐津系古窯の中でも数える程しかありません。

 岸岳系で斑唐津が焼かれた窯は帆柱、皿屋、道納屋谷、平松、そして大谷の五カ所。

皿屋古窯発掘 斑唐津鉢陶片
皿屋古窯発掘 斑唐津鉢陶片 (2)


  岸岳外系では山瀬、櫨ノ谷、大川原の三箇所。

山瀬古窯発掘 小皿陶片
大川原古窯発掘斑唐津小皿

 独特なのは唐津市浜玉町の山中にある山瀬古窯。高所に窯は築かれ、カリッとした土味は他の唐津系窯と一線を画しています。大半は白濁釉を施したもので、珍しい鉄絵を描いた斑絵唐津も焼かれていました。櫨ノ谷や大川原古窯の白濁釉は岸岳と非常に近しいものもあり、岸岳系皿屋古窯で数多生産していた口辺に鉄釉を施した斑皮鯨も多く作られています。櫨ノ谷に残る波多氏にまつわる伝承は別して記したいところです。

 松浦系では藤ノ川内、椎の峰、金石原、岳野、頭原、中の原、牟田原などで白濁釉を用いられていました(道園、阿房谷等でも斑は焼かれた、と書物にはありますが、私は現物を確認したことがありません)。同じ白濁釉といっても岸岳系や岸岳外系とは明らかに異なっており、器の成形や陶土も大きく異なっています。
 

藤ノ川内古窯発掘 斑唐津徳利陶片
金石原古窯発掘 斑唐津碗、小盃陶片

  武雄系においては武雄市武内町にある宇土ノ谷古窯で白濁釉を用いた皿や碗が作られていたことが確認されています。

 そして最後に平戸系。佐世保市三川内町にあった長葉山古窯は江戸前期に操業を開始し陶器と磁器を産していました。白濁釉を用いた陶器を焼いた最西端の窯であり前述の松浦系金石原古窯と釉調や陶技(高台の造りが酷似)しており、何かしら関係性があることをうかがわせます。

長葉山古窯発掘 斑唐津碗陶片

  こうして陶片を見てくると同じ白濁釉を施した「斑唐津」にも多くのヴァリエーションがあることがわかります。文禄慶長の役で朝鮮半島の様々な地域から人々が連れて来られました。地域が違えばやきものの製法も変わります。また陶工たちも日本にやってきて十年、二十年と過ごすうちに技術も独自の進化を遂げていった…そんなことを頭の片隅にとどめながら古唐津に、また現代陶唐津焼に接すると、やきものへの興味が深まるのではないでしょうか。

(文、写真:村多正俊)

サカズキノ國
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