90歳を過ぎても現役の美容師だった吉行あぐりさんは、年齢とともに「歩くのが下手になって」、ウオーキングを始めた。最初は万歩計を持って「あそこまで何分で歩けるか」と目標を決めたのだが、〈それではとてもつまらないの。それでお花を見たりしながら、ぶらぶら歩くことにしました〉◆春先の公園で芽吹いた植物を見つけた。毎日水をやると、夏にはきれいな朝顔が咲いた。それがうれしくて、通りすがりの人に「朝顔が咲いていますよ」と声を掛けているうち、友達が増えたという(『生きること老いること』)◆足の速い旅人は、人より先に未踏の地に行き着くことができる代わりに、途中の道端にある肝心なものを見落とす。物理学者の寺田寅彦はいわゆる「利口さ」を旅人にたとえてこう述べている。吉行さんのように歩みたいと願っても、つい小ざかしく速足になってしまうのが世の常である◆店先からマスクが消え、トイレットペーパーや保存食品の品薄が続いている。デマだとわかっていても、他人が踊らされて買い占められたらと先回りして混乱が広がる。非常時だからこそ冷静に柔軟に、と頭では思っていても、「入荷はいつ?」と店員さんにいらだちをぶつけてしまう…◆せき立てられるような気持ちを抑えて、道端に忘れてきたものに思いを巡らせるときである。(桑)

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