論争の場所になった宝満川、向こうに見える水門は水屋水門(久留米市側から鳥栖市方面を望む)

 鳥栖市域では江戸時代、宝満川を加利川、筑後川を大川・境川とも呼んでいました。元禄11(1698)年10月、宝満川に関連した対馬藩田代領と久留米藩荒瀬村との間に紛争(川論)が起きました。

 この紛争は(1)両村の間を流れる宝満川をどちらの支配のもとに置くか(2)水屋村の荷舟に久留米(笹山)城下の筑後川を通行させるかどうか、という二つの問題でした。

 両村の庄屋が何回か交渉を重ねましたが、当事者同士ではまとまらず、このため対馬から陶山庄右衛門(訥庵(とつあん))が派遣されてきました。久留米藩と交渉の結果、(1)境界線は宝満川の中間とし、渡し舟の権利を荒瀬村に認めること、魚漁・鳥猟については生業としている水屋村に認めること(2)荷舟の城下通行については久留米領民に依頼すること―という内容が示されました。(参考『鳥栖市誌第2巻』)(藤瀬禎博・鳥栖郷土研究会会長)

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