種をまいてスイッチを押せば、3週間でレタスが食べられる。近ごろはそんな、水耕栽培のまね事が手軽にできる道具がある。これにハマった人気脚本家の木皿泉さんに、農家育ちの若い女性が言った。「いいですね、虫がつかなくて」◆彼女の実家では取れたて野菜を使った料理が食卓に並ぶ。ある日、そこに虫が浮いているのに気がついた。家族は「そんなものは見えない」というが、よけてもよけても虫が浮いてくる。とうとう家で食事をするのが恐くなってしまった…◆〈たぶん、そんなに遠くない昔、私たちは野菜についた小さな虫など見えなかったのだと思う〉。木皿さんは書いている。暮らしと地続きに生きていた虫たちを排除する目は必要なかったからだ、と(『6粒と半分のお米』)◆きょうは啓蟄(けいちつ)。日ごと春めいて、冬眠していた虫たちが動き始めるころ。統計が始まって最も暖かかったこの冬は、浅い眠りに悩まされたことだろう。世界に目を転じれば、アフリカ東部ではバッタの大群が畑の作物を食い荒らし、深刻な食糧危機が心配されている。気候変動もまた人間と虫たちの関係をこじらせている◆昔は見えなかった、野菜についた虫まで気にするようになった今、人はもっと目に見えないものにおびえている。小谷舜花の一句を思い出す。〈幸福とは人の周囲に蠅許し〉(桑)

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