明治維新150年にちなみ、新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は小中一貫校松梅校中学部(松梅中学校、佐賀市大和町)の2年生です。(授業実施1月21日)

 

歴史の視点変えてみよう

古賀知之先生 昨年、元号が平成から令和に変わり、時代は変化していくということを皆さんも感じたことと思います。こういう時代の変化が今よりもっと大きかったのが明治維新の時で、政治の様相などがいっぺんに変わったことを授業で学びました。きょうは、その時に行われた大政奉還に佐賀の人たちがどう関わったのかなどについて、佐賀新聞社の記者の方たちに話してもらいます。

多久島文樹デスク 皆さんは1年生の時に「肥前さが幕末維新博」を見学して「七賢人」に代表される佐賀の人たちが、幕末や明治維新で大きな役割を果たしたことを学びましたね。

 七賢人のうち鍋島直正は藩主で、大隈重信、副島種臣ら6人を育てる立場でした。直正は幕末、さまざまな藩政改革を行いました。それはアヘン戦争で清(現在の中国)が英国に負けたことを知り「このままでは日本が危ない」と考え、西洋に対抗できる力を付けるためでした。きょう勉強するのはその幕末から明治維新を迎えるころ、江戸幕府から明治新政府に政権が切り替わる時の話です。

江島貴之記者 大政奉還とはどういうことでしょう。

生徒1 将軍徳川慶喜が、幕府の持っていた政治の権利を朝廷に返したことです。

江島記者 自分が持っていた政治の権利を自ら手放したわけだからすごいことですよね。日本の歴史上でも珍しいことです。

 幕末には幕府を盛り立てようとする佐幕派と、幕府を倒そうとする長州、薩摩などの倒幕派が対立していました。佐賀藩は西洋に対抗できるようにと大きな軍事力を持っていたので佐幕派、倒幕派の双方から動向が注目されていましたが、どちらにつくかはっきりしません。内戦を避けたいと思っていたからです。

 そして、藩内では大隈、副島が大政奉還を実現させようと行動しますがうまくいかず、結局、大政奉還は土佐藩が幕府に提案して実現しました。でも、大政奉還の後どういう事が起こりましたか。

生徒2 結局は戦争になりました。

江島記者 戊辰戦争ですね。倒幕派は幕府を力で倒して、自分たちを中心にした新しい政治をしたかったのです。戦争は倒幕派が勝ち、佐賀藩は、後から倒幕派に加わったので薩長より遅れた立場になりました。

 ここで、もし大政奉還が成功し、戦争がないまま徳川氏を含む新たな政権ができ上がったとしたら、どうなっていただろうと考えてみましょう。日本が変わらなければ世界から取り残されてしまうことが分かっていたので、佐幕派が中心になったとしても、やはり明治政府と同じような政策を取ったと思います。でも、その場合、本当に「もしも」ですが、佐賀藩が日本の政治のリーダーになり得る可能性もあったのではないか。それくらい、世界を見ていた佐賀藩の考え方は進んでいました。私はそう思っています。

 歴史を学ぶ時、「こういうこともあり得たかも」と視点を変えて考えてみると、違ったものが見えてくる場合があります。きょう皆さんに最も伝えたかったのは、歴史の結果だけを見るのではなく、見方自体を考えることも大切だということです。

多久島デスク 今年は東京オリンピックの年ですね。東京は、西にある京都に対しての「東の京」です。なぜ明治維新で首都が東京に移ったと思いますか。

生徒3 京都は古い町で貴重な文化財も多く、内戦や外国と戦争になった時に破壊されるのを防ぐため。

生徒4 攻められた時に守りやすい。

生徒5 京都は近代国家の首都をつくるには狭かった。

多久島デスク どれも正解でいいと思います。東京を首都にすることを提案したのが七賢人のうちの江藤新平、大木喬任だったということも知っておいてください。

古賀先生 今日の授業で、見方を変えると考え方が変わることにつながるということが、新しい発見だったと思います。皆さんもこれから、一つの出来事をいろんな角度から見て考えていくことを大切にしてください。

 

【授業を聞いて  みんなの感想】

小部 智也さん 流れに沿って学習している歴史だが、江島記者の「戦いの勝ち負けに注目するだけでなく、あり得たかも知れない『もしも』を考えてみることで、視点が広がる」という話を聞いて、違う視点で考えることが大事だと感じた。違った未来が見えて、なるほどと思った。普段は聞くことができない貴重な話で、とても勉強になった。

宮﨑 ヒナノさん 幕府が政治の実権を朝廷に返す大政奉還を、佐賀藩が早くから考えていたということが驚きだった。長州、薩摩などの倒幕派に佐賀藩はすぐに参加しなかったが、そこには内戦を避けたいという思いがあったことも知った。歴史を考える時に、視点を変えて見てみることの大事さも分かったし、そうすることで新しい発見ができると感じた。
 

【きょうの教材】「さが維新前夜」2017年10月28日付

大政奉還と佐賀藩 

将軍徳川慶喜が諸藩の重臣を集め、大政奉還を諮問した二条城=京都市中京区

 第2次長州征伐に失敗した幕府は態勢の立て直しを迫られ、急死した徳川家茂に代わり一橋慶喜が慶応2(1866)年12月、第15代将軍に就任した。その就任から20日後、孝明天皇が急死。公武(朝廷と幕府)合体による新たな政体を志向していた天皇の死去で、結果的には朝廷内で反幕派が台頭した。

 幕府の屋台骨が揺らいでいることは、佐賀藩もいち早く察知していた。慶応3(1867)年1月、幕府重臣の永井尚志が佐賀を訪れた。長州の処分などを相談するため鍋島直正に上京を促す目的だった。直正と面会した永井は「このままでは幕府の維持は難しい」と漏らしたという。このことを耳にした大隈重信は、幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還を実現しようと、副島種臣とともに行動を起こす。二人は脱藩し、京で慶喜の側近と面会。しかし慶喜とは会えず、佐賀に送還されて謹慎処分を受ける。

 薩長の武力倒幕路線と一線を画し、平和的な新政権樹立を目指したのが土佐藩だった。土佐藩は坂本龍馬が示した「船中八策」をもとに藩論を大政奉還で統一。慶喜が自ら政権を返上することで、倒幕派の機先を制する狙いがあった。前藩主山内容堂が10月に大政奉還の建白書を幕府に提出。慶喜は在京諸藩の重臣を二条城に集めて諮問し、朝廷に政権返上を申し出た。焦った薩長は倒幕の密勅を下すよう公家に働きかけ、慶喜が大政奉還を申し出た前日に薩摩、当日に長州に密勅が下った。

 謹慎を解かれた大隈は11月に江戸と京に向かい、「幕府は既に自滅に陥っている」と実感。大政奉還によって先手を打たれたものの、密勅を得た薩長は京に軍勢を送っており、大隈は一刻を争う事態と受け止めた。翌月に佐賀に戻った大隈は直正に、戦闘に発展したとしても「老公(直正)が起つなら、それが激しくならないうちに止めることができる」「起つか起たぬかは、単にわが藩の運命ばかりでなく、国家の安危にかかわる」と訴えた。しかし直正は方針を明らかにせず、翌年1月、京で王政復古のクーデターが勃発する。

 

【使ってみよう!ワークシート】

 「さが維新塾」では、新聞をもっと学校の学習や家庭での学びに役立ててもらおうと、記事を使ったワークシートを特設ウェブサイトで公開しています。問題を作成している多久島文樹NIE推進デスクがオススメのワークシートを紹介します。

 

出生数 最少86万4000人(2019年12月25日付)

 人口動態の年間集計から少子化の現状を読みとり、その対策について考えて話し合うようにしています。記事では出生数や前年との比較、過去からの推移が示されています。このように実数や比率など数値を読み取ると、取り上げられている事柄をよりきちんとつかむことができます。グラフなどの図表の表し方も参考になります。相手に正しく伝え正確に理解してもらうために役立ててみましょう。(多久島文樹NIE推進デスク)

 

ワークシートのダウンロードはこちらから↓

https://www.saga-s.co.jp/feature/ishinjuku/index

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【問い合わせ】
佐賀新聞社営業局アド・クリエート部
電話 0952(28)2195(平日9:30~17:30)
 

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