明治維新150年にちなみ、新聞を通じて地域の歴史を学ぶ「さが維新塾」。本紙記者による今回の出前授業は小中一貫校・芦刈観瀾校(小城市芦刈町)の9年生(中学3年生)です。(授業実施11月28日)

 

日本流の建築家像を創造

古賀正明先生 江戸時代、小城には佐賀藩の支藩・小城藩がありました。このため、幕末について学ぶ時、私たちは「佐賀の七賢人」など佐賀藩で活躍した人を中心に考えることが多いです。ただ、今の佐賀県の地域には佐賀藩だけでなく、幕府に近い譜代大名だった唐津藩もありました。唐津にも目を向けてもらいたいとの思いから、今日は「唐津八偉人」にも選ばれている辰野金吾を取り上げ、佐賀新聞社の記者の皆さんに詳しく話をしてもらいます。

多久島文樹デスク 今日は唐津藩の話をします。佐賀藩は鍋島氏がずっと藩主を務めましたが、唐津藩では寺沢氏から小笠原氏まで、何度も領主が代わりました。佐賀藩など大きな外様大名の近くには、幕府に近い譜代大名を置いて監視していました。唐津藩主の中でぜひ知っておいてほしいのが水野忠邦です。後に老中として、江戸時代の三大改革の一つである天保の改革を行いました。幕府で活躍する人物が藩主を務めたことからも、幕府が唐津藩を重視していたことが分かります。

 皆さんは昨年、肥前さが幕末維新博覧会を見学したと思います。佐賀の七賢人についても学んだはずですので、思い出してみましょう。(七賢人と辰野金吾の銅像の写真を比べながら)辰野の銅像は七賢人とはちょっと違います。どこが違うと思いますか。

生徒1 辰野金吾は洋服を着ています。

多久島デスク そうですね。辰野は洋服を着てひげを生やし、めがねをかけています。このことから分かるように、七賢人より若い世代の人です。幕府が倒れた時は皆さんと同じくらいの年齢で、今からちょうど100年前の1919年に亡くなりました。没後100年を記念し、今年は辰野を顕彰する展覧会などが各地で開かれました。

藤本拓希記者 辰野について書いた記事を読んでくれていると思いますので、皆さんから質問を受けます。

生徒2 辰野はどうして建築家になったの?

藤本記者 理由ははっきりしませんが、時代背景から推測することはできます。当時の日本は幕府を倒そうとする倒幕派と、助けようとする佐幕派が争い、倒幕派が勝って明治政府をつくりました。政府で重要なポジションを担ったのは幕府を倒そうとした人たちで、譜代大名だった唐津藩の人間は役人として出世するのは難しかったのです。さらに辰野は下級士族の息子でした。そこで技術者として重要な役割を担い、身を立てようと考えたのではないでしょうか。

 辰野は造船学を学ぼうとしましたが、入学した工部大学校に学科が置かれていなかったので、建築学に進んだと言われています。自分から積極的に建築を学ぼうとしていたわけではなく、仕方なく進んだのですが、これだけの功績を残しています。人の向き、不向きは面白いと取材をしていて感じました。

生徒3 辰野が、留学したイギリスの建築業界の仕組みをそのまま持ち帰らなかったのはなぜ?

藤本記者 辰野は、イギリスの建築の状況を批判的に分析しています。当時の建築業界は建築家と技術者、施工業者による分業制で建物を建てていました。分業がはっきりしていたので、お互いの仕事をあまり分かっていませんでした。建築家はいかに美しいものを建てるかに一生懸命で、逆に施工業者は造り方は分かるものの、美しく見せることには興味がありません。一方、大工が家を建てていた日本には建築家という職業はありませんでした。辰野はイギリスを完全にまねすることなく、新しい概念をつくっていこうとしました。

 皆さんは将来の夢を考えるとき、すでに活躍している人を目標にすることがほとんどで、日本にない職業を夢として挙げる人はそんなにいないと思います。それを成し遂げた辰野は、すごいなと感じます。

古賀先生 よく取り上げられる佐賀の七賢人と違い、辰野の名前を聞く機会はあまりないかもしれません。政治家のほうが知名度は高いですが、今日の授業で日本の産業を支え、新しい職業文化をつくった辰野のことを学ぶことができたので、また思い出してほしいです。辰野の生き方は、進路を考える上でもヒントになるかもしれません。

 

【授業を聞いて  みんなの感想】

古川慶さん 辰野金吾という名前は知っていたが、日本にこれまでなかった建築家という職業を新たに確立した人だとは知らなかった。辰野がいなかったら日本の建築技術の発達が遅れたかもしれないと思った。自分の将来の夢はまだ決まっていないので、何か新しいことにチャレンジしてみたいという気持ちになった。

田中 花音さん 人の2倍努力して、日本では当時認知されていなかった建築家という道を切り開いたことがすごいと思った。既にあるものではなく、新しい何かを始めるために頑張るって、本当にすてきなことだと思う。私ももうすぐ高校受験。周りの人より何倍も努力して夢をかなえたい。

 

【きょうの教材】「さが維新ひと紀行」2018年7月21日付

新たな職業文化確立​ 日本人建築家の先駆け・辰野金吾(1854~1919)

辰野金吾が設計した東京駅=東京都千代田区

 日本銀行本店や東京駅などを設計し、「日本近代建築の父」と称される唐津出身の建築家・辰野金吾。こうした近代日本を代表する作品を残しただけでなく、英国留学の経験を生かして日本建築界の基礎をつくったことも辰野の大きな功績といえる。

 辰野は、1854(嘉永7)年、唐津市坊主町の下級士族の家に次男として生まれた。17歳、唐津藩英学校「耐恒寮」への入学が転機となる。後に日本銀行本店の設計で建築事務主任として辰野とともに事業に携わり、内閣総理大臣も務める高橋是清が教師として招かれ、世界に目を向けるきっかけをつかんでいった。

 明治政府は東京を近代国家の首都にふさわしい町並みに生まれ変わらせるべく、欧米の建築技術者招請とともに、西洋建築技術を持つ人材の育成に力を注いだ。工業士官を育成する工部大学校(現・東京大工学部)には造家学が置かれ、辰野は1期生として入学した。

 入学時、下位の成績だった辰野は、大学校を首席で卒業、官費で渡英し、3年間、ヨーロッパで主流だった建築技術や思想を吸収した。日本ではなじみの薄い建築家という存在も、英国では既に職業として認知されていた。辰野が民間事務所立ち上げに挑戦した背景には、建築家が活躍する英国の景色があり、影響を受けたのかもしれない。

 一方で、英国の建築文化をそのまま日本に持ち込もうとはしなかった。建築家と施工業者の分業が進んでいた点に疑問を感じていた辰野は造家学会(現・日本建築学会)の立ち上げにも関わった。学者だけでなく、建築家、施工業者で構成し、三位一体で日本建築業界を形作っていく流れをつくろうとした。また帝国大学工科大学で、大工を講師にした日本建築学を開講。日本の伝統建築を学ぶことで、西洋から輸入した建築学を独自のものにしようとする風土の醸成につなげた。

 辰野の建築家としての歩みは、「日本独自の建築のかたち」の模索を続ける業界の姿と重なる。「辰野堅固」とあだ名されるほど頑健な構造の建物とともに、辰野の意志は時代を超えて受け継がれている。

 

【使ってみよう!ワークシート】

 「さが維新塾」では、新聞をもっと学校の学習や家庭での学びに役立ててもらおうと、記事を使ったワークシートを特設ウェブサイトで公開しています。問題を作成している多久島文樹NIE推進デスクがオススメのワークシートを紹介します。


プラごみ対策考えてみよう(2019年4月11日付)

 近年、プラスチックごみや地球温暖化など環境問題について繰り返し報道されています。国内外の企業の対応から国際的な協定まで、さまざまなレベルでの取り組みが行われています。この記事はベトナムのスーパーでの対応の紹介です。「食品包装にバナナの葉」という発想には、私たちも取り組むことのできる考え方が示されていて、一人一人が身近なところから考えていくべきだと考えます。(多久島文樹NIE推進デスク)

ワークシートのダウンロードはこちらから↓

https://www.saga-s.co.jp/feature/ishinjuku/index

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【問い合わせ】
佐賀新聞社営業局アド・クリエート部
電話 0952(28)2195(平日9:30~17:30)

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