渡し場のあった場所を見つめる古賀絹子さん。後ろは私費で建てた供養碑=みやき町天建寺の筑後川堤防

 1950(昭和25)年2月13日は、冷たい北風が吹く寒い朝だった。午前8時すぎ、筑後川東岸のみやき町天建寺地区に日常を切り裂くように半鐘がけたたましく鳴り響いた。

 「何が起きたのか」―。心配していると、対岸の三根東小へ通う児童ら40数人を乗せた渡し船が転覆した、との知らせが。小3、9歳だった弟(福田紀男=みちお=君)も船で通学していた。母は「家を早く出たから、前の船に乗ったはず」と祈るように繰り返していたが…。

 弟や、隣の家の小1男児ら児童6人は生きて帰ってこなかった。地元の人たちも総出で、夜はかがり火をたいて捜索したが、やっと弟の遺体が見つかったのは事故から23日目。色白でかわいかった姿そのままで、ランドセルを背負っていた。

 事故を教訓に4年後、現場南側に木造の橋が架けられた。88年には渡し場が見える堤防の上に私費で「学童遭難の碑」を建てた。近くに実家の墓もあり、現在暮らしている佐賀市から毎月、お参りに通っている。

 事故日には毎年、三根東小で命の大切さを考える集会が開かれる。70周年の今年は話を頼まれた。「弟がいつも通りに『行ってきまーす』と飛び出していった様子を語りました。この70年間、弟のことを一日たりとも忘れたことはありません」。命の尊さを懸命に伝えた。(高井誠)

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