唇の上に、溝みたいなへこみがあるのはなぜだろう。映画の中に気のきいた解釈がある。赤ん坊は生まれる前に世界のすべてを知ってしまう。だから生まれたとき、それを「誰にも教えちゃいけないよ」と天使が口の上に置いた指のあとなんだ…ハンフリー・ボガート主演「キー・ラーゴ」のせりふにある◆日本では「病は口より入り禍(わざわい)は口より出ず」などという。天使の指より、やはり口を手で覆うしぐさの方がなじみ深い。新型コロナウイルスの広がりとともに、列島中がマスク、マスクと大騒ぎになっているのも、そんな文化的土壌と無縁とは言えないだろう◆福岡市の地下鉄では先週、「せきをしているのにマスクをしていない乗客がいる」と非常通報ボタンが押され、緊急停止する騒ぎがあった。いま公共の場でマスクを着けていないと、「非常識」と難じられそうな空気である。それもこの国の土壌かと複雑な思いがする◆おととい「ひろば」欄で佐賀市の古賀道子さんの投稿を読んだ。難聴の人たちはマスクで相手の口元が隠れ、何をしゃべっているか「読唇」ができないという。自分だけはうつされるのはごめんだと、マスクで覆って見えない顔は、他者へのまなざしさえも閉ざしていることに気づく◆不安をあおっているのは、そんなコミュニケーションの不全なのかもしれない。(桑)

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