草場佩川が弘道館教育への批判を記した草稿(多久市郷土資料館蔵)

 草場佩川(はいせん)(1787~1867年)は、現在の多久市多久町に生まれました。漢詩や書画に優れ、当時の日本を代表する儒学者の一人です。陪臣の身分でありながら、佐賀藩校弘道館の教職を務め、後には教授となるなど異例の出世を遂げた人です。

 弘道館では大隈重信や副島種臣など優秀な人材を多数輩出し、佩川の名声も高まっていきました。しかし、その裏側で佩川は人知れず苦悩していました。

 「学館(弘道館)での教育方針は政治の方針と符合するべきなのだろうか」という問いから始まる意見書の草稿が、多久市郷土資料館に所蔵されています。「業績さえ上げればよい、といった風潮が生まれ、学生の態度が荒々しくなり、人を押しのける競争心にあおられている。教育方針の変調は政治方針の変調と対をなしているはずであり、そうした変化によって人心が離反することはないだろうか」と記しています。この意見書が提出されたかどうかは、分かっていません。

 葛藤を抱えながらも、佩川は職務に励みました。藩主鍋島直正からの信任は厚く、高齢と病気のために隠居を願い出ても75歳まで許されませんでした。明治維新の前年に81歳で亡くなりましたが、死の床でも「肥前が功利に走っている」と憂えていたといいます。佩川はまさに、時代の転換点でその生涯を終えました。

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