第四章 百折不撓(十)

 常に山本常朝は「他人に負けてたまるかという気概を持って奉公せよ」と言っていたので、田代陣基は問うたのだ。
 これに対し常朝は、「時により、事によるべし」と答えたという。うまく逃げを打った回答だが、常朝は「奉公の大義を知れば、(嫉妬や不満といった)機微(きび)(感情)は捨てられる」とも言っているので、陣基は「機微を捨て去ってこそ、奉公の道に踏み入れる」と解釈している。すなわち佐賀藩士たちは『葉隠』によって、幼少から嫉妬という感情を押し殺す訓練がなされてきたのだ。
 そういう精神風土もあって、皆、大隈の立身を心から喜び、中央での活躍を祈ってくれた。
 皆の気遣いに涙が出る思いだったが、大隈は終始笑顔で通した。残念だったのは、佐賀に戻る暇がなく、閑叟に挨拶に行けなかったことだ。
 送別会に来てくれた藩の重役は、「火急につき致し方ないことだ。ご老公にはしかと伝えておく」と言ってくれたので、申し訳ない気持ちがいくらか薄らいだ。
 また母の三井子、妻の美登、娘の熊子にも、しばしの別れを告げられなかったことも残念だった。それでも大隈は三人に書簡を書き、許しを請うた。
 ――世情が混乱しているのだ。致し方ない。
 実は中央への栄転が決まった後、大隈には佐賀に戻る余裕があった。しかし「浦上四番崩れ」という厄介な問題の処理を依頼され、それに忙殺されていたのだ。
 この問題は、長崎奉行所によって捕縛された隠れキリシタンたちに、明治政府が江戸幕府同様に厳罰を下そうとしたことに起因する。
 それを知った諸外国の公使たちは、こぞって反対したが、総督の沢と井上は「五榜(ごぼう)の掲示」の第三札にある「キリスト教の禁止」を根拠にして、首謀者の磔刑(たっけい)と信徒の流罪(るざい)という厳罰を処すべきだと中央政府に提案した。
 これに公使たちの怒りが爆発する。その抗議を誰かが聞かねばならず、沢の要望で大隈が引き受けざるを得なかったのだ。
 フルベッキの薫陶を受けた大隈はキリスト教に深い理解を示していたが、国法は国法だ。そのため長崎では明確な態度を示さず、大坂にいる木戸ら政府首脳と話し合うことで落着させた。
 一方の諸外国の公使たちも、代表を立てることで交渉を継続するという線で納得した。
 大隈は「やれやれ」という思いを抱きながら、大坂行きの船に乗った。

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