森繁久弥さんが映画に出始めたころ、あこがれの俳優藤原鎌足さんに演技のコツを尋ねたことがあった◆戦前から活躍する名優は最初、何も教えてくれなかったが、ある日、酔いにまかせてこう語った。「映画俳優なんて、ピンとキリを知ってりゃ、真ん中は誰でも出来るんだ」。頂点とどん底を経験すれば、中間のごく普通の人間を演じることなどわけはない。そんな苦労人の芸談を森繁さんは終生忘れなかったという(『あの日あの夜 森繁交遊録』)◆大相撲の徳勝龍関も「ピン」と「キリ」を味わった人だろう。十両と幕内を行ったり来たりの幕尻から混戦の初場所を制した。「不細工な相撲しか取れない」と語る愚直さと、入門から11年間、一度も休場したことのない地道さで大輪の花を咲かせた◆努力の人の活躍に、テレビさじきでわが身を重ねるのが人情だが、森繁さんはこう書いている。〈今どきの人間は、ピンもキリも知らずに成長して大人になる。(中略)もはやピンからもキリからも遠ざかりつつある、ボヤッとした真ん中の人達〉と手厳しい◆世の中は格差が広がり、中間層が圧縮しているという。〈ボヤっとした真ん中の人達〉はむしろ減って、決して互いに交わることのない「ピン」と「キリ」ばかりになっていく。いくら名優でも、この時代を演じるのは難しかろう。(桑)

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