第四章 百折不撓(三)
 

 長崎奉行とは江戸幕府の設置した遠国(おんごく)奉行の首座にあたり、天領長崎の最高責任者として長崎の行政と司法、さらに長崎会所を管理していた。長崎会所とは鎖国時代にオランダと清との交易を一手に管理し、巨額の富を生み出した幕府の稼ぎ頭の一つだった。当然、その余禄も多く、高位の旗本たちは盛んに猟官運動をして、長崎奉行の座に就こうとした。
 幕府最後の長崎奉行は河津伊豆守祐邦(かわづいずのかみすけくに)で、前年の十月十二日に着任したばかりだった。なんとその二日後には大政奉還となり、十二月には王政復古が宣言され、翌慶応四年一月には鳥羽・伏見の戦いがあり、長崎奉行所も追討対象にされた。まさに踏んだり蹴ったりだが、河津は長崎奉行並の留守役人を一人残し、海路で江戸に帰ってしまった。
 大隈が長崎に駆けつけた時、すでに土佐藩の佐佐木三四郎(高行(たかゆき))が長崎奉行所を接収しており、留守役人から仕事の引き継ぎを受けていた。
 一歩遅れた大隈は佐佐木に、「長崎奉行の業務は、長崎御番の福岡・佐賀両藩が引き継ぎを受けます」と言ったところ、佐佐木は「幕命は無効だ。わが藩が引き継ぐ」と言って聞かない。
 そこに諸藩の長崎番役も集まり始めたので、さすがの佐佐木も土佐だけで長崎奉行所の権益を独占するわけにもいかず、十六藩の諸藩連合で運営していくことになった。
 この時、薩摩藩士が「佐賀藩は佐幕派だから入れない」と言ったのに対し、大隈が「わが藩は先祖代々尊皇である」と言い返して大喧嘩になったが、皆が仲裁に入って事なきを得た。
 その結果、長崎奉行所は長崎会議所と名を変え、土佐藩から佐佐木以下三名、薩摩藩から松方(まつかた)助左衛門(正義(まさよし))以下三名、佐賀藩からは副島と大隈に島義勇の弟の重松基右衛門(しげまつもとえもん)の三名(すぐに副島が抜けて二名体制)、芸州藩二名、長州藩や残る九州諸藩から各一名、町年寄二名で発足することになる。
 一月十八日、各国の公使や事務官を長崎会議所に招いた諸藩士たちは、外国人の通行の安全と従来と変わらぬ通商を保証した。その一方、関税は従来通りに納めてもらうと釘を刺すことも忘れなかった。
 この時、諸藩の代表として外国人に説明をしたのが副島だった。各国の公使やその代理がこれに合意したので、これを京都の新政府に伝えるべく、副島と薩摩藩士一名が京都に向かった。

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