子ども新聞では、元日は日付を祝っているのではなく1年という期間の区切りを祝っていて、つらいことも苦しいこともある中で、それぞれ1年間よくがんばってきたねと励まし合う意味を考えました。

 各地で成人式が催されましたが、1年間生きるということも、20年を生きて成人式を迎えられるということも決して当たり前ではなく、生まれてくること、生きることはもともと簡単なことではないのだと思い返す機縁として祝日なのだと思います。

 成人式に関する数十秒のニュースではごく一部の奇抜な自己主張が目立ちます。成人式が一体何の行事なのかをきちんと認識できず、伝えきれていない大人社会を反映したものと言えそうです。一方、小学校4年生で10歳を祝う「2分の1成人式」も学年行事として流行していますが、これはこれで生い立ちや成長を祝うことを考えすぎて、学校行事としての中身に疑問を感じるものが出てきています。生まれてきたのは皆の事実ですが、生育過程、今の家庭の状況はそれぞれです。知られたくない過去の暴露やトラウマの再現の可能性があるものもあり、親への感謝の手紙も、書きようがない手紙を書かせ読ませてしまっている可能性があります。

 感動する児童、保護者も多いのですが、それならば、できる環境の人が家庭でやればいいことで、学校行事としての適正化を考えなくてはいけません。保護者が子どもを応援するメッセージならばわかりますが、子育ての苦労を子どもにねぎらわせる形になっていないでしょうか。

 私たち大人自身、節目をどのように祝っているでしょう。また、1年を過ごした、10年、20年を生きた子どもたちに何を願っているのでしょう。立派になってくれとか人に迷惑をかけないでという類いのことはどんどん出てきますが、他者と比較し、社会の中での役割を求めるのは大人の都合に他ならないと感じます。常々プレッシャーにさらされている子どもたちにさらに圧をかけて追い込む方向の願いはわざわざ言葉にしなくても伝わっているはずです。

 世間的に立派でなくても、人様に迷惑をかけることになったとしても、それは実は皆お互い様。自分さえよければではなく、自分も他者もその存在自体が「有り難く」尊いことに気付いていってほしいとの願いを大事にしたいと思います。

(浄土真宗本願寺派僧侶・日本思春期学会理事 古川潤哉)

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