現在は五ケ山ダムの湖底に沈んだ「稚児落としの滝」(提供写真)

蛤水道の構造を図解で説明する於保忠さん=吉野ヶ里町

成富兵庫茂安が手掛けた「蛤水道」。現在はコンクリートで整備されている=吉野ヶ里町(提供写真)

 「稚児落としの滝」など、吉野ヶ里町を流れる蛤水道(はまぐりすいどう)にまつわる江戸時代の伝説は、佐賀、福岡両藩の水争いの物語。同じ出来事のはずだが、県境を越えるとまったく様相が異なる。元佐賀県教育長の古藤浩さん(90)=佐賀市=が、佐賀、福岡双方の資料を比較した。

 蛤水道は“治水の神様”と呼ばれる成富兵庫茂安(1560~1634年)による導水事業。佐賀県の蛤岳に端を発し、現在の福岡県那珂川市へと流れていた水を、反対側の佐賀県の田手川水系へ切り替えた。

 「東脊振村70年史」(1960年)や吉野ヶ里町の「ふるさと読本」(2017年)によると、水不足に困った福岡側は蛤水道を壊して水を引き込もうと試みる。ここに紹介された稚児落としの伝説では、その役目を帯びた女性お万が、怪しまれないように乳飲み子を抱えて侵入。警備に阻まれ、やむなく乳飲み子を滝に捨て単身で向かう。が、かなわず滝に身を投げたとされる。

 古藤さんは「蛤水道は難事業だったので、それを強調しようとするあまりに尾ひれがつき、悲話として伝えられたのだろう」と語る。

 蛤水道一帯のガイドを務め、「ふるさと読本」も執筆した於保忠さん(75)=吉野ヶ里町=も「福岡側は地形的に水源が少ない切実な事情があった。そこで、さまざまな策略を巡らせた反映ではないか」と解説する。

 ところが、峠を越えて福岡側に入ると、まったく違う話に変わる。

 1976年刊の「郷土誌 那珂川」では稚児落としの滝の伝説は、オコリ(マラリア)を患った子どもがいて、オコリを払い落とすために驚かそうとして誤って滝つぼに落としたとある。単なるアクシデントの扱いで、水を奪おうとした話は伏せられた。江戸末期の「筑前国続風土記拾遺」にも記されているという。

 稚児落としの滝は、2018年に竣工(しゅんこう)した五ケ山ダムの底に沈んだ。福岡都市圏に供給するダムのために佐賀の住民が立ち退き、400年にわたった水争いは終止符が打たれた。於保さんは「この伝説を考えるに当たり、守り続けた土地を離れる決断をした住民に思いを寄せてほしい」と話している。

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