第三章 疾風怒濤(七十四)

こうした時代の変革期は、誰もが暗闇の中を手探りで進んでいくようになる。それが怖い者は、新たな時代にたどり着くことはできない。
 ちょうど夕日が西に見える長崎湾に沈み始めた。その壮大な風景を眺めながら、大隈は何か大きな未来が開けてくるような気がしてならなかった。

 大政奉還により朝廷が幕府の仕事を引き継ぐことになったが、そうなればそうなったで、難題が山積みされていた。
 まず幕府の仕事の核となるものは、大名統括権と外交権になる。
 外交権は国家の主権を持つ者として諸外国との外交を担うことだが、問題は大名統括権で、これは領主権を与えたり奪ったりすること、すなわち石高に応じた軍事的奉仕や普請作事などの課役を催促(要求)することに尽きる。これらの催促を守らなかった大名は、軍事的制裁ないしは軍事に裏打ちされた威嚇(いかく)によって、改易や減封などの罰則を受けることになる。
 つまり領主権の与奪も催促権も軍事力あってのものなのだ。となると軍事力を持たない朝廷は、政権をポンと渡されても何一つできないことになる。
 現に朝廷は慶喜の征夷大将軍の辞職願いも保留とし、外交についても幕府の外交担当の解任などなく、これまでと変わらず継続して担当させることにした。
 このような状態なので、漸進的に政治体制の刷新が行われていくだろうと思われていた十二月九日、驚くべきことが起こる。
 公家の岩倉具視と薩摩藩が中心となり、王政復古の大号令が発せられたのだ。これは一種の政変で、慶喜は辞官納地(じかんのうち)を命じられる。
 辞官納地とは、慶喜の官位官職と四百三十万石と言われる徳川家の所領を、ひとまず朝廷に返上せよということだ。
 これに慶喜が反発するのは当然で、すぐに取り消し要求が出された。これに尾張・越前・土佐といった公儀政体派諸藩が賛同し、岩倉と薩摩藩強硬派(西郷隆盛と大久保利通ら)は逆に追い込まれた。
 だが慶喜は、いきり立つ会津藩士らをなだめて大坂城に移ったので、双方の武力衝突はなくなったかに見えた。この時の慶喜は、軍事力に裏打ちされた威嚇により、事態の打開を図ろうとしていたからだ。

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