吉野ケ里遺跡が「邪馬台国時代のムラ」と報じられ、30年が過ぎた。わずか2カ月余で全国から100万人が詰めかけた空前のフィーバーは、工業団地開発の影に消え去るはずだった遺跡の運命を大きく変えた。

 吉野ケ里フィーバーが起きたのは1989(平成元)年。翌年には異例のスピードで国の史跡に、さらに翌年には特別史跡に指定された。工業団地の中止は香月熊雄知事の英断だったが、それを後押ししたのは弥生ロマンに魅了された世論の大きな力だった。

 吉野ケ里の出現までは、静岡県の登呂遺跡が弥生時代を代表する遺跡であり、のどかな稲作のイメージだった。ところが、吉野ケ里からは、武器によって傷つけられた人骨が多数出土し、環壕(かんごう)に守られた大規模集落が姿を現した。魏志倭人伝が伝える「倭国大乱」がまさに、この地で繰り広げられたのだろうと思わせた。

 教科書から登呂遺跡は姿を消し、吉野ケ里遺跡が取って代わった。文字通り、教科書を塗り替える大発見だった。

 現在、佐賀県立博物館で特別展「吉野ケ里遺跡-軌跡と未来-」が2月16日まで開かれている。その時々の新聞記事とともに出土品を時系列で並べており、当時の衝撃が生々しくよみがえってくる。

 開会式では、吉野ケ里遺跡の発掘を指揮して“ミスター吉野ケ里”と呼ばれる高島忠平氏(県芸術文化協会理事長)が「吉野ケ里は日本の国家の成り立ち、国造りを明らかにした」と胸を張っていた。魏志倭人伝に記された、高度に社会化された邪馬台国のイメージに、吉野ケ里はぴったりと重なるのだ。

 その魏志倭人伝は、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の皇帝から「銅鏡百枚」を受け取ったと伝える。

 先日、九州国立博物館で開かれた特別展「三国志」のために、魏の英雄、曹操の墓を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハンイヒン)氏が来日した。その折り、潘氏は大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」が、卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を佐賀新聞の取材に明かした。

 ダンワラの鏡は鉄製であり、倭人伝の「銅鏡」という表現とは食い違うが、潘氏は「鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と説明していた。

 ダンワラ鉄鏡については、出土の状況がはっきりしないという事情があるものの、邪馬台国論争に大きな一石を投じる指摘である。

 邪馬台国・九州説の中核を担ってきた吉野ケ里遺跡からは今なお発見が続いており、その全貌はベールに包まれている。

 発掘調査が2014年から中断して6年。県は北墳丘墓の西側、日吉神社周辺から発掘を再開する方針を打ち出した。この近くの甕棺(かめかん)墓からは、貝製の腕輪を36個も身に着けたシャーマン(司祭者)と考えられる女性が、前漢鏡とともに見つかっている。このエリアからいったい何が見つかるか、期待は膨らむ。

 吉野ケ里遺跡が私たちにのぞかせてくれた邪馬台国の世界。30年たってなお、その輝きは増すばかりである。

(古賀史生)

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