無地唐津筒盃(むじからつつつはい 器高4.9センチ、口径6.4センチ、高台径3.8センチ・桃山時代)

 聖地巡礼。もとは宗教用語だが、日本ではドラマやアニメーションの舞台となった地を訪れることになっている。佐賀県で言えばタイのドラマ「STAY Saga~私が恋した佐賀」やアニメーション「ユーリ!!! on ICE」での〝巡礼者〟によるまちの賑わいが皆さんの記憶に新しいところではないだろうか。

 さて唐津焼の聖地と言えば、それは唐津市北波多の飯洞甕(はんどうがめ)窯だろう。同窯は唐津焼発祥の地とされ、その名はやきもん数奇たちに広く知られている。私の友人はこの窯跡に初詣に訪れるという。これは随分とけったいな話に聞こえるかもしれないが私もその端くれ、彼の心情はよく理解できる。先ほどメールがあり、どうやら令和2年の元日に彼はここに参じたよう。

 
 

 盃に話をうつそう。使い込まれた無地唐津、しかも酒映え抜群の枇杷色を呈した筒盃である。土味や釉薬、その形状からみておそらく飯洞甕窯で作られたものであろう。手持ちは重く、堅牢。加えてキリッと品格ある佇まいに私にはどうにも茶のニュアンスを感じえずにはいられない。

 飯洞甕窯では数多の茶道具が作られていた。当時、名護屋城には茶人大名古田織部が陣を構え、唐津一帯の領主は織部と昵懇にして共に武家茶を牽引する寺沢広高が波多氏の後を担っていた。またここから佐里へと峠を越えると瀬戸唐津をはじめ更に多くの茶道具を産した道納屋谷(みちなやだに)窯があり、陶工同士の交流があっただろうと推察される。そんなこんなが私の独りよがりな盃への思いをより強いものにしていく。

この際、この盃のニュアンス考察に近世考古学は横に置いておこう。桃山時代、唐津焼は茶道を牽引し飯洞甕窯はいわばその主役であった。窯の生産ライン末端にまで茶の意識が刷り込まれ、結果、茶道具ではないこの盃をつくる陶工の作行にまで影響が及び、茶陶たる品格をもたらした…などと夢想をするのは楽しい。

 この飯洞の筒盃を手にすると、酒を、というより聖地たるこの窯を巡る桃山人達の営みに思いを馳せてしまうのだ。

(写真・吉井裕志 毎月第2金曜日掲載)


むらた・まさとし 1966年、東京都町田市生まれ。ポニーキャニオン・エリアアライアンス部長として映像や音楽を活用した各地の地域活性化事業をプロデュース。古唐津、佐賀の風土に魅せられ、WEB、雑誌、新聞等を通じてその魅力を発信している。古唐津研究交流会所属。世田谷区在住。

 

解説

無地唐津筒盃(むじからつつつはい)

 「サカズキノ國」連載第1回に登場した無地唐津盃。器胎や見込の丸みが魅力であったそれと異なる強さを有しているのが今回の盃です。

 その土味は唐津焼の魅力の一つであるざっくりしたもの。土や灰、また長石等により調合された特徴のある釉薬、凛とした器形と大きさ、そして出土した陶片等にも同種類型が多くあることから国指定史跡 肥前陶器窯跡の一つ「飯洞甕下窯」、または「飯洞甕上窯」で作られたものであるように思われます。同窯は唐津城築城以前、唐津地域の領主が居城とした岸岳城の麓、唐津市北波多稗田の地にあります。窯は朝鮮半島メソッドをまま具現化した割竹式登り窯。またその稼働開始時期については諸説ありつつも、他の唐津焼を産した伊万里、武雄、平戸諸系統と比較してきわめて早い時期に築かれ、唐津焼興隆期にその中核を担い、茶道具から日常雑器に至るまで様々な器を生産していたように考察されています。

 今回の無地唐津筒盃ですが、本文において「僕自身の夢想」としてとかく乱暴に茶陶と結び付けていますが実際にその論拠はあくまでも独りよがりのもの。この盃は小向付として世に出たように思われます。しかしその轆轤さばきや釉薬のかけ方、焼成具合、また偶然に生じた内壁の火間(釉薬のかけ外れた部位)や碁笥底高台(しかも何百年物使用により自然摩滅している素晴らしい佇まい!)等、この小さな盃にしてこれでもか、とやきもん数奇の琴線を揺さぶる魅力が満載されています

 さて現在、飯洞甕窯周辺は日本の窯業史において唐津焼が果たした役割や文化財としての価値を多くの人々が訪れて学び、共有する場とするための整備が進行中です。岐阜県土岐市の元屋敷窯跡(織部焼の主要窯)の例同様、飯洞甕窯が唐津焼の学びの場と成すこの計画は意義あるものと私は感じています。
 

飯洞甕窯①
飯洞甕窯②
飯洞甕窯③

 過日、唐津市在住の作陶家、矢野直人さんと同所を訪れましたが、下草が刈られ、ところどころに陶片が散在し、より鮮明に桃山時代を思い描くことが出来ました。他地域にはない、かけがえのないこの歴史的文化財の価値を同エリアに居住される方々はもちろん佐賀県に在するより多くの次世代の方々に継承していきたいものです。
 

無地唐津輪花盃(むじからつりんかはい)口径7.8センチ、器高4.8センチ、高台径4センチ

 

 今回ももう一つの盃について触れたいと思います。飯洞甕窯より佐里方面に峠ひとつ越えた地にある道納屋谷窯では多くの茶道具が焼かれていました。同窯の代表的なものとして瀬戸唐津茶碗(長石釉を意図的に厚く施釉する装飾法を用いた茶碗)が挙げられます。ここでは飯洞甕窯では生産されていなかった白濁釉を用いた、いわゆる斑唐津も焼かれていました。土灰や長石を主体とした飯洞甕窯系と白濁釉(藁灰釉)を主体とした帆柱・皿屋窯系の技術をあわせもった窯が道納屋谷窯、だったのです。
 

 
 

 この盃は本文で採り上げた飯洞甕窯で作られた筒盃の陶土と異なり、それがとても緻密。砂岩を砕き水簸、混合物を丁寧に取り除いた陶土を用い、土や灰に加え、長石分が多めの釉薬をかけ数奇者好みの枇杷色に焼成しています(釉調はご覧の通り飯洞窯のものと酷似)。特筆事項は注文者の意図により口辺を端反らせ、四箇所を指で押した輪花(りんか)と呼ばれる意匠を施してあるところで、この盃は輪花盃と呼ばれています。伝世品ゆえ器体にはトロみが生じ、手取りはしっとり、かつ滑らかで見込は広い。高台は丁寧に削られた碁笥底高台で頭巾は意図的に蝸牛のような渦を巻いています。

 この盃はやきもん数奇が思いを寄せる「古唐津の強さ」は併せ持ちませんが反面桃山の茶の影響やエレガンスを感じ取れます。おそらく寸法や形に細かなリクエストをした注文品であったのでしょう。今では盃とされていますが生まれは茶席で用いられる向付だったと想定されます。
 

道納屋谷窯①
道納屋谷窯②

 年の暮れ、唐津市教育委員会の許可を得て、道納屋谷窯をたずねました。現在は木立のなかの窯跡は静かに眠っています。盗掘防止のため周囲に鉄条網が張り巡らされ、どうにも寂しい状況でしたが窯道具の陶枕(とちん)がところどころに落ちており、当時をしのぶことが出来ました。その跡をわずかにとどめるここ道納屋谷窯、そして前述の飯洞甕窯ですが、いずれも桃山時代には多くの陶工、それを商う商人、そして時として茶人や武人たちが集い、やきもんについて侃々諤々を繰り広げていたことでしょう。唐津焼をして「やきもんルネサンス」と称したのは芸術新潮誌でした。将来タイムマシーンが出来たなら、激動の時代を切り拓く、気概に溢れた桃山人たちの挑戦を見てみたいものです。

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