第三章 疾風怒濤(六十六)

 慶喜は名を捨てて実を取り、見事に四百万石余に及ぶ徳川家の領土を守り抜いたのだ。
 ――土佐藩にできたことが、どうしてわれわれにできなかったのか。
 閑叟は容堂(ようどう)に先駆けて入京したにもかかわらず、大政奉還の「た」の字も発せられずに帰ってきた。 
 ――せめてご隠居様が一言でも言っておいてくれたら。
 もはや、すべては後の祭りだった。
 久米があきらめたように言う。
「これにより新政体では、土佐藩が大きな力を持つことになります」
「そんなことは分かっている!」
 大隈の剣幕に久米も鼻白む。
「こちらでは、大隈さんが後藤殿に大政奉還の秘策を語ったという噂が流れておりますぞ」
 ――副島さんか。
 大隈の独断で大政奉還の秘策を後藤に語ったことに、副島が憤りを感じていたことは間違いない。それを愚痴として誰かに語ったことが漏れたのだ。
 大隈が強弁する。
「わが藩のことだけを考えて、秘策を出し渋ることはできない。それほど、この国は崖っぷちに立たされているのだ。しかもご隠居様は将軍家に会うべく、容堂公(前土佐藩主の山内容堂)に先駆けて入京した。つまりすべての仕掛けは成功し、われらが新政体の主役になれるはずだったのだ」
 大隈が切歯扼腕(せっしやくわん)する。
「しかしご隠居様は、将軍家に何も申し上げなかったわけですね」
「そうだ。そなたら側近が諫言しなかったおかげでな」
「よろしいですか」
 久米が大隈の膝にぶつかるくらい近づく。
「私は責任逃れするつもりはありません。しかしご隠居様がいつまで畿内にいるか、われらも知らされていなかったのです。二度目の面談が最後と分かれば、私だって身を挺して諫言申し上げました。しかし三度目がいつになるかと思っていたところ、ご隠居様は『帰る』と言い出したのです」
「なぜ、その時、止めなかった」
「ご隠居様のお疲れの様子を見て、誰が止められますか」
 そう言われてしまえば、返す言葉もない。

このエントリーをはてなブックマークに追加