第三章 疾風怒濤(六十五)

 勇躍した大隈は慶応三年(一八六七)十月、長崎からの直航便で横浜に入る。発展する横浜を視察するゆとりもなく、大隈は江戸に向かい、佐賀藩と親しい幕臣らに会って今後の方針を確認した。この時、勝海舟(かつかいしゅう)とも初めて会い、その知遇を得たが、初対面ということもあり、腹を割って話をしたわけではない。
 この時、大隈が見た江戸の混乱ぶりはすさまじく、大隈はその回顧録で「歩兵、新徴組(しんちょうぐみ)は当たるに任せて乱暴し、いわゆる盗賊白昼に横行するの有様なりき。江戸にしてかくの如し。天下(畿内)のことは知るべきのみ。幕府はすでに自滅に陥れり」と記している。
 つまり大隈は江戸の秩序さえ守れなくなった幕府は、すでに統治機関として機能しておらず、その先行きも見えていると感じたのだ。
 その帰途、大坂を経て京都に入った大隈は、こちらも物情騒然としている有様に唖然とした。そこで同僚の山口尚芳(やまぐちなおよし)から京都の情勢を聞き、もはや猶予はないと覚った大隈は、兵庫経由で佐賀に戻ることにする。むろん閑叟に四度目の入京を促すためだ。
 ところが佐賀に戻った大隈より一足早く、佐賀には驚くべき一報が入っていた。
「大政奉還が成ったというのか!」
 大隈の自邸の二階にある屋根裏部屋で、久米邦武からその話を聞いた大隈は、愕然として二の句が継げなかった。
「われらは、土佐藩の後手に回ったのか」
「後手どころか、すべての功を土佐藩にさらわれてしまったのです」 
 大隈が天を仰ぐ。
 十月三日、土佐藩の後藤象二郎は福岡孝弟(ふくおかたかちか)と共に大政奉還の建白書を幕府に提出した。これを受けた慶喜は御三家や老中たちと協議の末、受け入れることに決定し、十三日、在京諸大名に告げた。
 大政奉還の上申書が慶喜に受け容れられたということは、今後の政局の主導権を土佐藩が握ることになる。尤も後藤は、すでに薩摩藩を率いる小松帯刀に根回しを済ませており、小松も討幕路線から大政奉還支持に舵を切り始めていた。こうした水面下の動きは遠隔地の佐賀や長崎には伝わらず、あくまで土佐藩が薩摩藩を出し抜いたと思われていた。
 ――これで薩長両藩の討幕戦争の大義名分は消え失せ、公儀政体の議定に慶喜公も名を連ねるわけか。

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