全国から見学者が殺到したフィーバーぶりを伝える当時の佐賀新聞

国重要文化財「巴形銅器鋳型」(長さ17・5センチ、厚さ6・4センチ、文化庁、佐賀県所蔵)。右は巴形銅器再現品

弥生時代後期の硯(上)や研石(下)とみられる石製品(佐賀県教育委員会提供)

2001年に開園し、ここ2年は70万人以上が訪れる吉野ケ里歴史公園

吉野ケ里フィーバーから30年。魏志倭人伝の「邪馬台国」をほうふつとさせる巨大環壕集落は、それまでの弥生時代のイメージを一変させた。

 透明なブルーのガラス管玉をはじめとした装飾品の数々は高度な文化と社会システムの存在を印象づけ、一方で傷ついた人骨は「倭国大乱」と呼ばれた時代が確かに存在したと、私たちに伝えてくる。

 工業団地開発に伴い、消えゆく運命だった吉野ケ里遺跡がたどった歩みを、出土品とともにたどる。

 

一般公開に100万人殺到 紙面で振り返る「フィーバー」

 佐賀新聞が、吉野ケ里遺跡を「邪馬台国時代のクニ?」と報じたのは1989年2月24日付の1面。古代史最大の謎は考古学ファンの関心を呼び、発掘現場には連日、見学者が殺到。1日で10万人以上も訪れた日もあり、2カ月以上にわたり続いた熱狂ぶりが紙面からうかがえる。

 2月24日は昭和天皇の「大喪の礼」で休日となり、25日付第2社会面では、発掘現場に早朝から大勢の人が詰め掛けた様子を紹介。25、26の両日開かれた現地説明会の人出が約1万人に達し、同27日付社会面は「邪馬台国フィーバー」と大見出しを付けた。3月6日付の社会面は「高まる邪馬台国熱」の見出しで、盗掘防止のため、墳丘墓の上にテントを張り、寝ずの番をしている県教委担当者の奮闘ぶりも伝えた。

 大型連休中の5月4日は最高の10万3千人を記録、現地での一般公開最終日となった7日も8万1千人が見学。2月末からの見学者は100万人の大台に到達した。連休が明けて遺跡周辺に並んで“名物”となったうどんや弁当などの露店はほとんどが店じまいとなったが「うちは閉めない。客はまだ来るよ」と商魂たくましいアイスクリーム店主もいた。

 

学び、レジャー1128万人来場 歴史公園開園18年

 吉野ケ里歴史公園は、国営部分が2001年4月にオープンした。県営部分と合わせた面積は117ヘクタール(国営54ヘクタール、県営63ヘクタール)で、全体で約104ヘクタールが開園した。

 累計の来場者は1128万人。17年度は73万人、18年度は77万人を超え、2年続けて最多を更新した。大型遊具やバーベキューを楽しめる施設などが整備され、レジャーで訪れる人が増えている。

 学びの場としての受け入れ態勢も充実している。多彩な体験プログラムを実施するほか、修学旅行では、クラスごとに無償でガイドを配置する。

 インバウンド(訪日外国人客)も16年度に約1万3千人が訪れ、昨年度は66カ国・地域から来園した。来場者がSNSで発信した情報を見て訪れる人も少なくない。日本語のほか、英語、韓国語、中国語に対応した音声ガイドによるタッチペン式地図も使える。

 冬場はライトアップイベントを実施。吉野ヶ里町商工会による軽トラ市も来園者増加に貢献している。同園は「吉野ケ里の歴史的価値は不変。福岡都市圏からの来場者など、地元と連携し、潜在的な需要を掘り起こしたい」とにぎわい創出に努める。

 

発見、今も 佐賀平野初の「硯」を確認 

 吉野ケ里遺跡からは今なお、新たな発見が相次ぐ。

 今年3月、弥生時代後期の硯(すずり)が見つかった。佐賀平野では初めてであり、「有明海沿岸地域でも弥生時代に文字が使われていた可能性が高い」という。

 すずりは長さ7・8センチ、幅5・2センチ、厚さ1・0センチ。墨をすりつぶす道具「研石(けんせき)」(長さ3・8センチ、幅3・5センチ、厚さ0・5センチ)も確認できた。

 それぞれ1993年と95年に出土し、砥石と考えられてきた。だが、最新の知見で再検討を加えた結果、すずりと判明した。竪穴式住居の跡から見つかっており、身分の高い人物が暮らしていたと考えられる。

 次に新たな発見への期待がかかるのが、北墳丘墓の西側に位置する「日吉神社」周辺エリアだ。地権者が神社庁であり、これまでは対象から外れてきたが、県が発掘調査へ乗り出す方針を打ち出した。

 弥生時代中期の甕棺墓の列が伸び、ここからは女性シャーマンの甕棺墓が見つかっている。この女性は中国製の銅鏡や貝殻で作った腕輪を36個も身につけており、政治・宗教的に重要な人物だったとみられている。

 

過去最大規模、逸品ぞろい 2020年1月1日から特別展

 佐賀県立美術館は元日から、吉野ケ里遺跡の史跡指定30周年記念特別展「吉野ケ里遺跡-軌跡と未来-」(佐賀新聞社など特別協力・共催)を開く。国重要文化財「ガラス管玉」をはじめ、出土品展示は120点と過去最大規模で、吉野ケ里フィーバーを伝える新聞紙面などと連動し時系列で紹介。体験型のイベントなどと併せ、吉野ケ里の魅力を伝える。

 貴重な展示品の中でも、国重要文化財の「ガラス管玉」に注目だ。1989年に北墳丘墓で79個が見つかり、過去にその一部が展示されたことはあったが、修復を経て、今回初めてすべてがそろった“完全版”として展示する。コバルトブルーの輝きが、古代ロマンに彩りを加える。

 同じく国重文の「把頭飾付有柄銅剣(はとうしょくつきゆうへい)」「巴形銅器鋳型」、国内最古とみられる弥生人の毛髪、戦いで頭部を失った人骨など、2千年前の営みが浮かび上がる第一級の資料がそろう。当時の発掘担当者が「吉野ケ里の30年」を語る映像、発掘当時の実物大写真や弥生人の暮らしを体感できる竪穴住居も2棟設置する。

 同館は「“オール吉野ケ里”といえる優品を結集した展覧会。戦前の発見例などと合わせて吉野ケ里100年の歩みをたどりたい」と来場を呼び掛ける。

 ▼佐賀市城内の佐賀県立美術館=電話0952(24)3947=で2020年1月1日から2月16日まで。観覧料は一般500円、高校生以下と、障害のある人とその介助者1人は無料。

 

キーワードで見る吉野ケ里

【魏志倭人伝】日本古代史に関する最古の史料。「三国志」の中の「魏書」東夷伝倭人の条を指す。晋時代の歴史家、陳寿(233~297年)がまとめた。倭の女王卑弥呼との通交や、卑弥呼の死、宗女壱与の王位継承などを2千字余りで記している。

【邪馬台国】倭は30の国々からなる連合国家で、邪馬台国は女王・卑弥呼が王宮を構えた中心的な国だったと考えられる。倭人伝は国名を挙げながら邪馬台国に至る道のりを詳しく伝える。鍵は「ヤマタイ=ヤマト」の読み解き方。九州説は筑後山門(やまと)(現在の福岡県柳川市・みやま市)の地名から八女郡一帯とする立場が多い。近畿説は大和(奈良県)に当てる。

【邪馬台国の光景】倭人伝は、邪馬台国の光景を「宮室・楼観・城柵、厳しく設け、常に人有りて、兵を持して守衛す」と記す。女王が暮らす宮室があり、四方を見渡せる楼観があり、環壕を伴う城柵がある。この特徴は吉野ケ里遺跡に当てはまり、邪馬台国と結びつける根拠となっている。

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