第三章 疾風怒濤(三十五)

 ここで捕まれば牢に放り込まれる。そうなれば、よくても最低一年は出てこられない。
 ――逃げるしかないな。
 貴重な時間を、牢内で無駄にすごすわけにはいかない。
「どうしよう」と言って藤花が怯える。
 捕吏が別の部屋の襖を開けている音がする。その度に遊女の「きゃー」という声が聞こえる。
 中には町人らしき男の「突然なんでえ!」という罵声(ばせい)も交じっている。
 大隈は着物だけでも着ようと思ったが、どうやらその余裕はないようだ。
「わしは逃げる!」
 大隈が窓を開け放った次の瞬間、背後で部屋の襖が開いた。
 ――ええい、ままよ!
 大隈が飛び降りようとした時だった。
「八太郎、ここにいたか!」
 背後から聞き覚えのある声がした。
 肩越しに振り向くと、見慣れた顔が二つあった。
「副島さん――。あっ、大木さんも一緒にどうしたんですか」
「どうしたと聞きたいのはこっちの方だ。褌一丁でどこに行くつもりだ」
「どこへって、逃げようと思ったんですが――」
「なんで逃げるのだ」
 言われてみれば、捕吏の手入れと勘違いしたのは大隈である。
「誰でも脛(すね)に一つくらい傷がありますよ。突然、騒ぎになれば逃げたくなるものです」
 決まりが悪そうな顔で座に戻ると、大隈は着物を着始めた。藤花はいつの間にかいなくなっている。
 副島が膝を叩かんばかりに言う。
「ああ、そうか。密貿易で捕まると思ったのだな」
 大隈が慌てて窓の障子を閉める。
「そんなに大きな声で言わないで下さい。本物の捕吏が来ちまいます」
「こいつは悪かった」
「どうしてここが分かったんですか」
 帯を締めながら大隈が問うと、副島がその場に胡坐をかきながら答えた。
「そなたが寄りそうなところを片っ端から探していた」
 腕を組んで事の成り行きを見守っていた大木が、ようやく声を上げる。

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