第三章 疾風怒濤(三十三)

       八
 深海に潜む伏龍と化したかのように、大隈は長崎から動かなかった。
 中央政局の情報は頻繁に伝わってくるが、フルベッキから教えられる欧米社会のすべてが大隈にとって新鮮で、その刺激から離れ難くなっていたのだ。
 だが時勢の変化は、大隈と佐賀藩を待ってはくれない。
 慶応二年(一八六六)一月、薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)と長州藩の木戸孝允(きどたかよし)の間で、六カ条の覚書が取り交わされた。世に言う薩長同盟である。
 だがこの段階では、攻守同盟と呼べるものにはほど遠く、せいぜい長州藩の復権を薩摩藩は朝廷に周旋(しゅうせん)すること、さらに幕長戦争となった折、薩摩藩は中立を保つという程度で、倒幕同盟にはほど遠いものだった。
 それでも諸外国から軍艦や武器を直接購入できない長州藩にとって、薩摩藩の名義を借り、それらを購入できたのは実に大きかった。
 幕府は薩長両藩の不穏な動きに不安を感じたのか、三月に入ると、大目付を佐賀に派遣し、閑叟に大坂へ来るよう促した。
 幕府としては佐賀藩に勅命を下し、薩摩藩軍が北上してきた際の抑えにしようとしたのだ。
 だが閑叟は柄崎(つかさき)温泉で療養しており、大坂に向かうことなど、とてもできない。そうこうしているうちに兄の鍋島安房(あわ)が病没し、その葬儀などで佐賀を離れられなくなっていた。
 鍋島安房とは藩主の鍋島閑叟の庶兄で、筆頭家老兼弘道館長の要職にあった鍋島安房守茂真(しげまさ)のことだ。安房は義祭同盟にも名を連ね、大隈をはじめとした義祭同盟の若者たちのよき理解者でもあった。

 この頃の大隈は、昼は貿易の仕事をするか、フルベッキから英語と欧米社会のことを学び、夜ともなれば他藩の士と交わり、情報収集に余念がなかった。さらにその後は、引田屋(ひけたや)に行くことも多くなっていた。
 褌(ふんどし)一丁で行燈の前に胡坐(あぐら)をかいた大隈は、その中に顔を突っ込むようにしながら延べ煙管に火を点けた。
「あんたって人は変わっているね」
 藤花が鏡の前で化粧を直しながら言う。
「何が変わっている」
 煙管から吐き出した紫煙の向こうで、上半身裸の藤花が笑っていた。

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