第三章 疾風怒濤(三十)

 もじもじしながら広澤が問う。
「確か、そなたは水練が得意だったな」
「ああ、河童(かっぱ)の八太郎と呼ばれていたくらいだからな」
 大隈が胸を張る。
「わしは泳げん」
「ああ、知っている」
「いざという時に、ご老公を担いで泳げるか」
「その時になってみなければ分からん」
「何とか頼む」
 広澤が陰で手を合わせたので、大隈も肚を決めた。
「分かった。いざという時はご老公と共に沈む」
「沈んでは困るのだ!」
 その時、佐野と話していた閑叟が振り向いた。
「大隈、何をやっておる」
「は、はい。何もやっておりません」
「では、今から下に降りるぞ」
「下というのは――、海のことですか」
「お前はいつも可笑しなことを言う。罐室に行って蒸気罐を見るのだ」
 憂鬱な顔の佐野に先導され、閑叟が罐室に下りていく。致し方なく大隈と広澤らも続いた。

 ようやく三重津が見えてきた時は、大隈のみならず、付き従ってきた者たちの間に安堵のため息が広がった。
 ところが閑叟は田中と意気投合したらしく、二人で何やら歓談している。その後方で佐野がほっとしたような顔で佇んでいる。
 ――佐野殿は晴れの舞台を田中老人に奪われたな。
 佐賀藩一の英才と謳われた佐野が、からくり人形作りの老人に主役の座を奪われたことが、大隈には痛快だった。
 ――これからは年齢や身分ではないのだ。
 その時、閑叟が振り向くと突然、「大隈」と呼んだ。
「あっ、はい」と答えて大隈が駆けつける。
「どうした顔色が悪いぞ」
「はい。此度は少し波が高かったので、ちと船酔いしました」
「そなたは酒だけではなく、船にも酔うのか」
 閑叟の戯れ言に笑い声を上げられたのは、田中だけだった。
「どうだ。わしの蒸気船は大海原を航海したぞ。おそらくこの国で初めてのことだ」

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