木綿町の囃子の練習で使われている太鼓。紺屋町から譲り受けたと語られている=唐津市大名小路の三ノ丸辰巳櫓

九州大の学生の協力で製作した黒獅子のCGの前で江頭紘一さん。手に持つのは、創作した紺屋町のちょうちん=唐津市紺屋町

 唐津市中心部では10月の夜、くんち囃子(ばやし)が響く。大名小路にある櫓(やぐら)前の広場は、9番曳山「武田信玄の兜(かぶと)」の木綿町の練習会場。男の子が交代で練習用の太鼓をたたいていた。普段は見られないが、その胴の内側に「宝暦12年 午(うま) 六月吉日 細工人 はりまや源兵衛」と墨書きがある。

 西暦で1762年。現在の曳山が製作される以前の傘鉾(かさぼこ)が巡行していた頃の太鼓であることを示している。正取締の正田俊輔さん(55)は「紺屋町から譲り受けたと父の代から聞いている」と言う。“もう一つ”の曳山で使われていたと伝わる。

 ◆明治期に消失

 現在、曳山は14台あるが、15台の時期があった。紺屋町の「黒獅子」。製作は1859~62(安政6~文久2)年の間とされ、最後の巡行は1889(明治22)年とされる。消失の原因は「お堀に落ちた」「ちょうちんの火で燃えた」など諸説あり、定かでない。

 「曳いてみたいなと思ったこともありますよ」と話すのは紺屋町の吉冨槙也さん(32)。子どもの頃から隣町京町の12番曳山「珠取(たまとり)獅子」の曳き子としてくんちに参加してきた。自分の町にかつて曳山があったと知ったのは小学校高学年の時。黒獅子の曳き子だったかもしれないと思うと、少しわくわくした。

 しかし、「ないものは仕方ない」。囃子の責任者を務め、くんち当日は曳山が曲がる際に合図を出す元綱の役を担うこともあり、「自分は京町の人間」との自負もある。くんち本番を控え、町の一員として高揚感と緊張感が高まる。

 残っていれば、8番曳山「金獅子」の後ろで巡行していた黒獅子。紺屋町の婦人アパレル店「ヤマトヤ」の江頭紘一社長(78)は「金獅子と黒獅子。2体1対の曳山だった」と熱く語る。吉冨さんと同じく珠取獅子を曳きながら、今はない地元町の曳山に思いをはせてきた。

 ◆復元の夢かなわず

 50歳の時、その存在を伝える黒獅子会を町内で立ち上げ、復元に向けて走り回った過去がある。県や国に補助金を申請したが、制作費を集めることができず断念した。市出身の資産家が援助を申し出たこともあったが、町と方針が合わず頓挫。限界があった。

 木綿町の太鼓の話は江頭さんも聞いたことがある。「黒獅子が受け継がれているようでうれしい」。自身が集めた資料も次の世代へ残そうと思っている。「唐津くんちの物語に黒獅子は欠かせんけんね」。これからも語り継がれる。

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