戦後、千塔山の桜が丘公園内に開園した町立基山保育園=基山町宮浦(松隈嵩氏提供)

 墓地・畑として使われてきた基山町の千塔山(せんどやま)台地は1926(昭和元)年ごろから、桜の植栽が始まり、40年代には「桜が丘公園」として町民の憩いの場となり、55(昭和30)年3月には公園内に町立基山保育園が開園する。

 明治期における千塔山は、どのような山容であったろうか? 梁井卓一氏(~1973年)が、68年に著した『梁井幾太郎の生涯 巻1』には03(明治36)年、千塔山に墓参りに行く様子が描かれている。

 要旨は次の通り。

 「三国山酒造場から西に折れて千塔山の真南から、赤土の登り坂を滑らぬように注意して登れば、巨木が数本ある。餓鬼が下がるとか、馬の首が下がるとか言われている恐ろしいところを辛抱して通れば、右は大ハゼ畑(今の基山保育園運動場)、左の大密林を恐る恐る通って墓地に着く。」 駅前台地の千塔山は、近現代では招魂社の招聘(しょうへい)、公園としての桜の植栽、基山保育園の設置など、町民と密接に関わってきた。

 50年代後半から60年代前半にかけては、町発展のために駅前台地を取り壊して、住宅地・道路・商店街を造成するか、それとも現状のまま駅前台地として残すか、その是非について町民の間でも大きな話題になった。(地域リポーター・久保山正和=基山町小倉)

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