第一章 気宇壮大(三十四)

 大隈は江藤に感謝の言葉を述べながら、その垢で黒ずんだ畳に額を擦り付けた。
「よし、では始める」
 江藤が『ナチュール・キュンデ』を開くと、カビの匂いが鼻腔(びくう)いっぱいに広がった。

 安政(あんせい)三年(一八五六)、江藤は、こうした己の考えを『図海策(ずかいさく)』にまとめていた。
 江藤はこの論文集で攘夷思想を排斥し、攘夷戦争の愚を説いた。その一方、開国によって貿易を盛んに行い、西洋諸国の優れた人材を招聘(しょうへい)し、指導に当たってもらうことを主張した。
 そうした努力によって産業を振興し、海軍を強化する。同時に蝦夷地(えぞち)開拓によって新たな財源を確保し、それをもって外貨の流出を防ぐという独自の開国・経世論こそ、『図海策』の言わんとしているところだった。
 こうした開国論は、島津斉彬や越前藩士の橋本左内(はしもとさない)も建白書や著作で唱えていたが、江藤が『図海策』を提出したのはほぼ同じ時期なので、江藤がいかに先進的だったかが分かる。
『図海策』には「積極的開国により通商を盛んにし、富国強兵によって西洋諸国との間に対等の関係を築いていく」という江藤の考えが理路整然と記されており、鍋島直正も目を通すほど高く評価された。これにより江藤は、佐賀藩内でも一目置かれる存在になる。

 大隈は蘭学寮に通い、まじめに蘭語を学んでいた。でもそこは大隈である。耳学問で済ませられるものは済ませ、そうはいかないものだけを懸命に勉強したので、極めて効率よく知識を吸収していった。
 中でも語学は努力を要する科目なので、大隈はそれに力を注いだ。そして先輩から優れた蘭学書の要旨を聞き、蒸気機関の原理から仕組みまでも理解できるようになった。
 こうして効率性を重視した学習法によって、大隈は優秀な者たちを抑え、蘭語では蘭学寮一と言われるまでになった。単語を覚えるのは苦手だったが、蘭語の文法と構文は得意で、日常的な会話文なら蘭語の文章が書けるまでになった。
「やめた」
 安政七年(一八六〇)三月、桜が満開の多布施(たふせ)川河畔を久米丈一郎と一緒に歩きながら、大隈が唐突に言った。

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