ファッションデザイナーの田代淳也さん=唐津市呼子町の「Himitsukiti Design Studio」

 日本最高峰のファッションの祭典「東京コレクション」に11回、新作を発表した多久市出身のファッションデザイナー田代淳也さん(42)。独学でファッションを追求し、2006年に天然素材を使う自身のブランド「JUNYA TASHIRO」を立ち上げた。今年5月に福岡から唐津市呼子町に拠点を移し、着物を洋服にする「KIMONO-DRESS PROJECT」に取り組み、ニューヨークにも出展した。サラリーマンだった田代さんがファッションデザイナーを志した経緯や、ファッション界の裏側を聞いた。

ガスの配送員から服作りへ

ワンピースの型紙

 昔はファッションに関心がなかった。高校卒業後はコンピューターの専門学校に通って求人のあった工場に就職し、会社が倒産したのでガスの配送員になった。バイクにのめり込んで、休日は熊本までレースに出掛けた。「バイクで食ってやるぞ」とまで考えていたが、24歳で結婚したのを機にやめた。
 それからは仕事ばかりの毎日だった。配送員はやりたかった仕事ではなく、同じことの繰り返しがどうしようもなく退屈だった。「バイクに乗れなくなった今、何を目指して生きていこう」と、なんとなく過ぎる日々を変えたかった。
 「アクセサリーでも陶芸でも何でもよかった。それがたまたま洋服だっただけ」―積もり積もった鬱憤(うっぷん)が、田代さんを物作りへ駆り立てた。華やかそうな世界に憧れ、ファッションの道へ歩み出す。
 佐賀から福岡に行くたびに服作りの本を20冊ほど買って帰った。それから睡眠時間3時間の生活が始まる。福岡に拠点を置く資金を稼ぐため、会社で仕事をしながら、夜は居酒屋でアルバイトをこなした。帰って服の本を読み、少し寝たらまた仕事。いつしか洋服のことしか考えなくなっていた。
 27歳で会社を辞め、福岡に拠点を移す。
 まずはシャツから作り始めた。デザインを描き、トルソー(マネキンのボディー)に布を直接当てて型紙をおこし、裁断、縫製する。ミリ単位の作業が求められた。緻密に引いた線にぴったり沿うよう裁断し、縫製しないと服の一周が簡単に数センチずれてしまう。
 服を作りながら、バイクのメンテナンスと似た感覚を思い出す。バイクも細かい作業の積み重ねでコンマ1秒、100分の1秒の世界を詰めていた。
 それからスカートにワンピース、とにかく数多く作ることに専念し、半年ほどで一通り作れるようになった。

 

日本最高峰の舞台へ

テーマは「オブラート」。「オブラートに包む」という言葉通り、一見かわい過ぎて着られないような柄を透明感のある薄い布で包んで和らげた。“口に入れたら溶けそう”な薄手の生地を多用し、田代さんの最高傑作となった(2010年春夏コレクション)

 「華やかでもなんでもなかった」-作った服をセレクトショップに売り込んでも、20代前半の店員に門前払いを食らい続けた。そんな中でも服を置いてくれる店があり、「服が売れた」との連絡や街中で自分の服を着た人を見かけることで手応えをつかんでいった。
 独立から3年後の2004年、当時あまり使われていなかった麻や絹などの天然素材を使う自身のブランド「JUNYA TASHIRO」を立ち上げる。
 この頃、牛津高の服飾デザイン科卒で、職業系短期大学の工場で縫製を経験した石橋はるみさんと出会う。友人の結婚式の2次会で偶然隣に座った2人は、福岡で開催されたアジアコレクション(当時、福岡県美容生活衛生同業組合主催)で初タッグを組んだ。独学だった田代さんのデザインに、パリ・コレクションで発表された服を縫った経験もある石橋さんの縫製が加わった。
 ブランドコンセプトは「着るほどに柔らかくなって体になじみ、洗うほどにいい風合いになっていき着る人と共に成長していく服」。服の質や取引先を審査され、06年に日本最高峰のファッションショー東京コレクション(日本ファッション・ウィーク推進機構主催)に出品が決まる。

テーマは「セピア写真の住人」。100年ほど前の本に挟んであった色あせた写真と押し花から、昔の色や素材感の想像を膨らませ、紅茶染・草木染の手法を用いて表現した(2006~7年秋冬コレクション)

 再び睡眠時間3時間の生活が始まった。「デザインは生き物」、食事中もシャワー中も常に新しいデザインを考えて、差し替えを繰り返して枕元にメモも置いた。「最初で最後のコレクション。最高の服を作りたい」という一心だった。
 また、主催者から与えられるのはショーの時間だけ。会場もモデルも何もかも自分たちで手配しなければならなかった。ショー当日も慌ただしく、舞台裏で服やヘアメークの最終チェックに追われた。デザイナーはいつも、自分のショーすら見ることができない。ショーの様子は後日、録画したものをDVDで鑑賞した。
 経費は安く見積もっても500万~800万円。ショーに出ても報酬はないが、華々しい経歴は残る。ショーの後に開催する展示会での受注や、東京コレクションを機に舞い込んだ制服のデザイン、専門学校の講師といった仕事で採算を取った。
 服は作って終わりではなく、そこに自分の世界観を落とし込みながら流行を生み出すことができる。「1回出れば終了だと思っていたが、終わってみるともう1回出たいと思ってしまうもの」。それから春と秋にある東京コレクションに11回、出品し続けた。

 

着物を洋服に

海外に発信するため「サムライ」をテーマにし、着物をドレスに生まれ変わらせた

 2011年の東日本大震災で、3月の東京コレクションが自粛された。それまでの半年間が水の泡になっただけでなく、震災以降、服そのものも売れなくなった。
 東京コレクションの同期など、デザイナーを辞める人が相次いだ。「明日はわが身」と感じた田代さんは、多額の費用がかかるショーにリスクを感じて、震災を一区切りに参加を中断した。ほかのことはできないかとアジアに目を向け、3年ほど中国やベトナム、タイなどで服を売ったり、ラオスでファッションショーを開催したりした。
 海外を経験し、自分が日本人であることを実感するようになった。「洋服は日本のものではなく、海外からきた文化。日本人デザイナーとして何ができるだろう」-浮かんだのは“着物”だった。「伝統工芸品のイメージがある着物をファッションの域へ」と、家庭でタンスの肥やしになった着物を解体し、ドレスやワンピース、パーカにする「KIMONO-DRESS PROJECT」を開始する。
 構想から2年、今年9月にアメリカのニューヨークで展示会を行うと、“和の洋服”は現地で目をひき、新たな取引先も見つかった。「海外での反応は面白かったが、やっぱり日本人に着てもらいたい」と意気込んでいる。

ファッションに浸れる場所を

 東京コレクションデビューから10年。今年5月に、唐津市呼子町の穏やかな潮風が流れる港町に拠点を移した。「ファッションの究極は衣食住」と、起きてから寝るまで、さらには食器やインテリアまで自分のファッションに浸れる場所を求めた。発信する側として、人としてまっとうに生き、物作りに最適な環境がより質を高めると考える。
 着る人の顔が見えない大量生産に見切りを付け、「これからは着る人の顔が見える服を作っていきたい」と1日1着のペースで着物を洋服にしている。
 

クリエイターを目指すみなさんへ

徹底した基本を身に付けていくしかない。洋服でいうと穴が四つあれば形になるが、それで着心地がいいかは別の話。長くやっていい物を作りたいなら、徹底した基本の上にしか成り立たない。

 

たしろ・じゅんや
 1974年多久市生まれ、厳木高出身。工場やガス会社に就職後、華やかな世界に憧れてファッションの道を志す。福岡に拠点を移して独学で服を作り、2004年にブランド「JUNYA TASHIRO」を立ち上げ、アジアコレクションでデビュー。06年から東京コレクションに参加。09年にアトリエ兼直営店「Himitsukiti」を法人化。
 現在は、着物を洋服にする「KIMONO-DRESS PROJECT」を展開中。今年5月に唐津市呼子町に拠点を移し、9月にはニューヨークで展示会を開催した。

 

ロゴマーク

クワガタがモチーフのロゴマーク。子どものような好奇心で洋服に向き合いたい思いが込められている。

★クリエイターズカフェとは

佐賀県出身、または佐賀で活躍しているクリエイターを紹介していきます。(カフェ=人が集まる場、情報交換のできる場所。Visitor(ナンバリング)=訪問者、客。)

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