第一章 気宇壮大(二十七)
 

 大隈が威儀を正して言う。
「できましたら『ナチュール・キュンデ』をお貸しいただけないでしょうか」
「それは、蘭学寮の光八丈(大庭雪斎)が持っているだろう」
「いや、今は訳出中とのことで--」
「ああ、そうだったな。だがこちらにある本も、人に貸し出している」
「えっ、誰にですか」
「江藤新平(えとうしんぺい)だ」
「あっ」と言って大隈が唖然とする。
「そうか。江藤はそなたらと同じ義祭同盟だな」
 二人がうなずく。
「確か江藤は、そなたより四つほど年上ではないか。だったら江藤を手伝い、いろいろ教えてもらえ。今、江藤は何やらいう時事意見書を書いており、その参考に『ナチュール・キュンデ』を使いたいと言うんで貸し出した」
 あっけらかんと佐野が言う。
「それが--」
 空閑(くが)が助け船を出す。
「八太郎は、江藤さんが苦手なんです」
「苦手だと。なぜだ」
 大隈が言いにくそうに言う。
「江藤さんは謹厳実直で、曲がったことが大嫌いなので、それがしとは合わないのです」
「そなたは、曲がったことが好きなのか」
「いや、そういうわけではありませんが--」
「だったら頼んでみろ」
「は、はい」
 大隈は気が重くなったが、すぐに立ち直った。
「それでは、蒸気機関の話をお聞かせいただけないでしょうか」
「何だと」と言って佐野が噴き出す。
「世間話とは違うんだ。そんな簡単なものではない」
「分かっています。しかし知りたいんです」
「おいおい」と言いながら、佐野がため息を漏らす。
「話をするにしても蘭語になる。あちらの窮理(きゅうり)の用語に当てはまる日本語がないからな。つまり会話だけで、あんな複雑なものを理解できるはずがない」
「いや、分かります」
 大隈は耳学問に自信がある。
「なぜ、そんなことが言える」
「それがしには志があるからです」
「志だと--」

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