第一章 気宇壮大(二十四

「おい」と言って大庭が本を引き寄せる。
「そなたの蘭語では、理解するのに一年以上かかるぞ」
 大隈が威儀を正して平伏する。
「そこを何とか」
「わしは今、こいつを訳出しようとしている。だから貸せない」
「では、教えて下さい」
「また耳学問か」
 大隈の耳学問は、すでに有名になっていた。
「残念ながら、わしにその暇はない。だがな」
 大庭が新たな茶碗を出してきたので、大隈はそれを受け取り、酒を注いだ。大庭がそれを一気に飲み干す。
「殿には、この本を二冊買っていただいた」
 そう言うと大庭は、佐賀城の方を向いて拝礼した。仕方ないので大隈もそれに倣う。
「本の選別と購入はオランダ人に任せているので、こうした良書が入手できたのは僥倖(ぎょうこう)以外の何物でもない」
「それで、もう一人、『ナチュール・キュンデ』を持っているのですね」
「ああ、そうだ。しかもその者は、わしよりも理解している」
「えっ、先生よりも、ですか」
 佐賀家中で蘭学の第一人者と謳われる大庭以上の洋学研究者がいるなど、大隈には信じ難かった。
「たいへんな逸材だ」
「それは、いったい誰ですか」
「聞きたいか」
「ぜひ」
 大庭の差し出す茶碗に大隈が酒を注ぐと、大庭はもったいぶるような口調で言った。
「精錬方頭人(とうにん)の佐野栄寿(えいじゅ)(後の常民(つねたみ))だ」
「なんだ」
「何がなんだだ」
「わが友の義兄です」
「だったら、そっちから先に行け!」
 大庭に怒鳴られても大隈は物怖じしない。その後も様々な質問を投げかけたが、大庭は酩酊し、やがて膳の上に突っ伏すように寝てしまった。その坊主頭は、すでに朱色を越えて赤黒くなっている。
 大隈はその背に回ると、上掛けを肩に懸けてやった。その時、大庭の傍らにある『ナチュール・キュンデ』にそっと手を伸ばすと、手首を掴まれた。

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