第一章 気宇壮大(二十三

「これはハンデンブルグというオランダ人が書いた『ナチュール・キュンデ』という本だ」
「まさか蘭語ですか」
「そうだ」と言って大庭がにやりとする。
 大隈は蘭語を完全に習得したわけでもなく、また根気もないので、「これを読め」と言われることを恐れた。
「今、わしはこの本の日本語訳を進めているが、つい訳出せずに読み進めてしまう」
「どうしてですか」
「面白いからだ」
 大庭が『ナチュール・キュンデ』をどんと置いたので、対座する大隈の許(もと)まで埃(ほこり)が飛んできた。
「何が書かれているんですか」
 大隈が顔をしかめつつ問う。
「この本は窮理(きゅうり)から説き起こし、それを蒸気機関に結び付けている。つまり窮理の本質が実利的なものに結び付けられている本だ」
「えっ、それは本当ですか」
「まあ、聞け」
 大庭が胸を張るようにして語る。
「黒船来航以来、蒸気という言葉は開明的な学者たちの合言葉になった。新知識をひけらかしたい者は決まって蒸気と言い、蒸気船の必要性を叫んだ。だが誰もその原理について知らなかった。石炭を燃料にして軍船を快速で動かし、蒸気が上がるという事実は分かるのだが、どうやれば液体や固体が気体になるのか、その原理が分からない。だがここには--」
 大庭の声が大きくなる。
「気化、沸騰(ふっとう)、飽和(ほうわ)、液化といった概念が書かれている。いかにも、これを読むだけで蒸気船が造れるわけではない。だがその原理を知ることなくして、蒸気船を造ることはできん」
「至極、尤(もっと)もなことです」
「そうか、そなたにも分かるか。わしも蘭本を渉猟したが、原理の書かれた本と実用的な本が別個になっているものが大半なので、その橋渡しの役割を担うものに出会えなかった。それがこの本では、実によく書かれている。むろん蒸気機関だけではなく西洋の技術全般について、窮理から結び付けてくれるので、たいへん重宝している」
 それこそ大隈が求めているものだった。
「それを貸してくれませんか」
 むろん自分で読むつもりはなく、蘭語に秀でた者に又貸しして要点を教えてもらうつもりだ。

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