第一章 気宇壮大(二十二)


 大庭が「さもありなん」という顔で言う。
「そうだろう。そなたの蘭語の力では、あれは読めん」
「でも、おおむね理解しております」
「読まんで、どうして理解できる!」
 大庭が茶碗を叩きつけたので、見事に茶碗が割れた。
「あっ、物質同士がぶつかり合って、一方が割れました」
 大隈も大庭に負けじと酔っている。
「ああ、本当だ」
 割れた茶碗からこぼれた酒が大庭の裾(すそ)を濡らす。それを大庭が懸命にすする。
「固体は、元素の密度が濃い方が固い。だから低い方が壊れる」
「先生、着物の裾が酒びたしです」
「構わん。液体は元素密度の低い固体に染みこむものだ」
 大庭は一張羅(いっちょうら)の八丈(八丈島産の生地を使った絹織物)をいつも着ており、それが汚れて垢光りしているので、その坊主頭と相まって「光八丈」と呼ばれていた。
 大隈が話題を転じる。
「先生、私は蘭語を学ぶのに抵抗はないのですが、窮理(きゅうり)(物理)やナチュール・サイエンス(自然科学)について学ぶ意欲がわかないのです」
 大隈が直截に問う。
「えっ、そうなのか。わしには万物の原理ほど面白いものはない。なぜそなたは、窮理を学ぶ意欲がわかないのだ」
「どうも窮理は、実利には遠いような気がします」
「そこだ」
 怒鳴られるかと思いきや、大庭が膝を叩く。
「そなたは早く結果をほしがる」
「人として当然のことでは」
「そうだ。だが迂遠に見えても、窮理の本質を知ることをせずに結果を得ることはできない」
「ははあ、その通りかもしれませんが、どうしても窮理の本質が実利的なものに結び付かないのです」
 大隈は原理的なものにはさして興味がなく、実用的なものを好んだ。
「確かに、そなたの言うことも分からなくはない」
 大庭は立ち上がると、部屋の奥から分厚い本を持ち出してきた。その表紙はもとより、天地も小口も手垢で汚れている。

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