第一章 気宇壮大(二十)


 佐賀藩は幕府直轄領の長崎に近いこともあり、外国の文物(ぶんぶつ)がよく入ってきた。それが開明的な藩風を形成する因となったのだが、実は痛みを伴う経験を経たことも、佐賀藩の開明性に寄与していた。
 この時をさかのぼること二百十六年ほど前の寛永(かんえい)十七年(一六四〇)、ポルトガル船が通商を求めて長崎に来航してきた。幕府は前年、第五次鎖国令としてポルトガル船の入港を禁じたばかりだったので、使節一行六十一名を処刑した。
 そんなことをすれば当然、報復が予想される。
 そのため翌年、幕府は筑前(ちくぜん)(福岡)藩黒田家に長崎港警備を命じる。これが「長崎御番(ごばん)」の始まりとなる。ところが、筑前藩だけでは負担に耐えられないという泣きが入り、寛永十九年、佐賀藩鍋島家にも「長崎御番」が命じられた。
 両藩は一年交替で御番を務めることになり、その当番年には、一千余の兵を長崎に駐屯させねばならなくなった。これにより両藩は、藩財政が傾くほどの過大な負担を強いられていく。
 それでも百六十八年余にわたって長崎は平穏無事で、御番も形式的なものになっていた。その平穏が吹き飛んだのが、文化五年(一八〇八)のイギリス軍艦フェートン号の来航だった。
 イギリスはナポレオンの支配下に入ったオランダと交戦状態に入ったことで、アジア各地のオランダ商館を接収し、また商船を拿捕(だほ)するなどしていた。その一環として、長崎におけるオランダの権益を奪おうとしたのだ。
 長崎奉行は、この年の当番だった佐賀藩にフェートン号の追い出しを命じるが、オランダ船が帰ったばかりで、佐賀藩兵の大半が帰国しており、すぐに命令に応じられない。そのため長崎奉行はフェートン号に水と食料を供給し、なだめすかして帰ってもらった。つまり長崎奉行自ら国禁を犯したのだ。
 この不始末の責任を取って奉行が切腹したことで、佐賀藩の番頭(ばんがしら)二名も腹を切ることになる。
 また当時の佐賀藩主・斉直(なりなお)は、幕府から百日間の閉門(へいもん)(屋敷から出られないこと)に処された。
 だが、この事件が起こった時に佐賀藩が当番年だったことで、藩士全員に危機感が行き渡り、それが藩を挙げての洋式技術の習得につながっていく。
 さらに直正(なおまさ)が藩主となった十年目に遭遇した阿片(あへん)戦争(一八四〇~四二)は、直正のみならず藩士たちに海防の重要性を再認識させた。

このエントリーをはてなブックマークに追加